Act.4〜A.D.208 長江
建安13(A.D.208)年、夏。
まぶしい夏の陽にきらめく長江は、さながら光の海のように見えた。
その上を、威風堂々滑ってゆくのは…
…俺たちの水軍だ。
周囲の船を見回した甘寧の背筋を、ぞくぞくと何かが駆け上がる。覚えず胸が熱くなる。
4年前、この東呉に来てから、周瑜や呂蒙と、鍛えに鍛えた水軍。その大艦隊の、出航。
自分たちの真価が試される日が、すぐそこに来ているのだ。
目標は、江夏。…狙うは、黄祖の首。
父の仇と倶に天を戴くことは出来ぬという孫権の檄に、水軍の士気はみるみる上がった。
黄祖は主君の父の仇、それは周知のことである。そうして、何度も抗争を繰り返す中で、この地の民の誰かの仇にもなったのだろう…、多分。
…公績と、同じだな。
自分を父の仇呼ばわりして何かとつっかかってくる若い男の顔が、甘寧の脳裏をちらりと過ぎった。
あのときは討ち洩らした黄祖だが…かなりの部分自分の手柄だと甘寧は思っているが…、今回はどうしても、討ち取らねばならない。
彼自慢の荊州水軍を、どうしても、長江の藻屑にしてしまわねばならない。
そう、…「ねばならない」のだ。それが、今までと違う。
次は、ない。
背中をまた何かが駆け上がる。武者震いだと言い聞かせる。
復仇。判りやすい言葉だ。戦を前に檄を飛ばし士気を高めるには、格好の言葉だ。
だが、ここにある現実はそんな、感情ひとつでどうこうなるような甘いものではない。主君が出陣を、それもこの時期に、決断した理由を甘寧は知っていた。
それを呂蒙に告げたのは、この水のように眩しい、星の瞳を持った女…
…ご期待通り、やってやるぜ、お姫さん。ま、見てな。
甘寧は不敵な笑みを浮かべた。
そう。次はないのだ。なぜなら…
あの男はきっと来る。
あの男。乱世の奸雄・曹操、字は孟徳。
同じ船団を別の感慨を込めて眺めている、おおきな瞳があった。
…こういう戦は、嫌だ。
彼の「ひめさま」から、曹操が来る前に水軍を磨き上げろと言われた男…、呂蒙の瞳である。
…それは、俺にとって大事なひとたちのためだってのは、同じだけれど。でも…
周囲の兵たちは出陣に気負い盛り上がっているが、その瞳は、己の船団に細かく目配りしながらも、どこかかなしげないろを消さない。
…これまでは、俺の好きなみんなが戦に行くから、それで、誰にも死んだり怪我したりしてほしくないから、だからついてって一生懸命敵倒してきたってだけだったんだけど…こういうのは…
ほんの子供の頃から兵として戦場に出た自分だが、こういう戦は始めてだ。
こういう戦。
このたびの戦の目的は、江夏の城市の破壊と、荊州水軍の殲滅。
…4年前。同じこの江を遡って、同じ江夏を目指してた時は、…俺も、大殿の仇討ちだーって、今他のみんなが盛り上がってるみたいな感じでわーってなってた。
うまくいったら江夏が占領出来るかも、そしたら荊州に足がかりが出来る、俺たちの国はもっとおっきくなるって、そう思ってた。
この「孫」の旗だって、もっと晴れ晴れした気持ちで見上げることが出来た。
あの時の目的は、「黄祖の打倒と江夏占領」だったから。
そうなんだ。「破壊」じゃなくて、「占領」だったんだ。
前の時と今では、目的が違うんだ。
それが…嫌なんだ、俺は。
見上げる「孫」の旗は、初夏の風に、心地よさげに靡いている。きらめく長江はさながら、光の海のよう。
4年前と何も変わらない。いや、むしろ、あの頃より船の数は増えたし、動きもよくなっている。自分たちが丹精した水軍…、その成果の現れだと思えば、誇らしく思えぬこともない。
けれど。
…あの時とは、違うんだ。
おおきな瞳が、また、曇った。
…違うのは、船が増えたからでも水軍が立派になったからでもない。相手の黄祖…てゆっか、黄祖の主人の劉表、彼はちょこっと絡んでるけど、とにかくそっちのせいでもない。
曹操。
曹操が禁軍連れて南に来るというのが、確実になったから。
南下すれば、荊州の劉表とぶつかる。劉表はもういい年齢だし、家中にもなんだかいざこざがあるらしい。うん…、劉表は、曹操に勝てない。いずれ、荊州は、曹操のものになるだろう。
そうなったら、次は、揚州…
「曹操」の名を口にするとき、いつも学問をみてくれている張昭や張紘の目に浮かぶ表情を思い出し、呂蒙は哀しげな顔をした。
曹操といえば、彼らの故郷・徐州で大虐殺を行った男。自分が尊敬するあのふたりを難民として、愛した故郷から切り離した男。
彼らは、あの時、命からがら、江の南に逃れてきたのだ。家財や生活の基盤を奪われたのはもちろん、家族や友人たちまで殺されて…
…あんなひどいことした男に揚州を渡すのは、嫌だ。せっかく、前の殿と今の殿が頑張って、やっとみんな落ち着いて暮らせるようになりかけてるのに…
それでなくとも、北の支配を受けていた間は、いろいろと…嫌なこともあったのだという。
自分にはよくわからないが、「ひめさま」が言っていた。ここは漢朝の祖・劉邦と最後まで天下を争った項王を出した土地だから、漢朝の政はどこよりも厳しかったと。
豪族同士をいがみ合わせて勢力を削ごうとしてみたり、中央に仕官した揚州出身者を虐めたり…。
汝南の、自分の故郷でも、税が厳しくて夜逃げした村もあったくらいなのに、あれよりまだ厳しかったんじゃ、…それは広いわりに人が少ないのも当たり前だ。
食えない時は子供を間引きしたり、酷い時には生まれた子を食ってしまったりというのは、どこでだってある話だもの。
今、孫家は、やっとその漢朝の鎖を断ち切って、この揚州を豊かな土地にしようとしているところなのだ。
漢朝の軍…、曹操の連れてくる禁軍なんかにに揚州を渡したくはない。…誰の胸にも、その思いはある。
…そのためだから、仕方ないといえばそうなんだけど…
揚州を守るためには、この、長江の制水権の維持は、欠かせない。長江に曹操の拠点が出来れば、そして、彼が水軍を持ってしまったら、その、制水権の維持が難しくなる。
だから、江夏は絶対に、潰しておかねばならない。
「幸い、劉表は、領土をこっちに拡げることにはあんまり熱心じゃなかったからな。殿と先代がしつこく追っ払って来たお陰だよ。長江沿いの水軍拠点は、あそこだけだ。あれはどうでも潰しておかないと」
そう言ったのは、魯粛であった。
「曹操が江夏と荊州水軍手に入れちまったら、揚州を守ろうったって守りきれなくなるかもしれない。だから…」
「占領するんですか?」
…そう聞いたら、「やっぱお前って阿蒙だなあ」って言われたんだよな。
「お前、どやって守るんだ?あっこだけぼこっと突出した格好になるだろ?奪われたら、曹操に揚州攻略の足がかりを進呈するようなもんじゃねえか。」
言われてみれば、その通り。
確かに、荊州は、水路で細かく分断された揚州とは違う。曹操自慢の騎馬隊が大活躍出来る地形だ。
だから…、城は、焼き払う。住民は、東呉に移す。水軍は、殲滅する。一隻も残すわけにはいかない。
それも頃合いが難しい。あまり早くに潰してしまうと、曹操が来る前に作り直されるかもしれない。だから、ぎりぎりの頃合いを見計らって…
絶対に失敗できない戦なのだ。今までのように、今年だめならまた来年というわけにはいかないのだ。
次は、ない。
…あの時とは、違うんだ。
呂蒙はきっと、唇を噛んだ。
…こうしないと、俺のだいじな人たちが、守れない。俺の殿が一生懸命育ててきたこの国が守れない。仕方ない。それは判る。だけど…
こういう戦は、嫌だ。
だってそうだろ?領地の取り合いってのは、…ほんとに、持ち主同士の喧嘩だろ?住んでる人にしたら、上が変わるだけだし。前の領主よりいい政してやればいいだけだし。
でも、こんどは、ただ、潰しに行くんだもん。江夏の人たちが一生懸命つくってきたものを全部、潰そうって戦なんだもん。…嫌だよ。
しかも、その理由は…
…曹操なんて、遠い北の人じゃん?江夏の人たちに何の関係もないじゃん?
なんでこうなるんだよ!
自分たちとは全くかかわりのない何かのせいで、住む家と土地を奪われ、身も知らぬ土地に行かされる。それも、…俺たちの手でだ。
見渡せば、見事な動きで長江を遡上する東呉水軍。
きらめく光の帯の上、晴れ晴れとその帆を広げて。
…俺たちだってこんな戦、やりたいわけじゃないのに!俺、こんなことのために水軍鍛えたわけじゃないのに!
それなのに。
何か、巨大で不気味なものが、何の関わりもない人たちを巻き込んでゆくような気がする。
無論自分も巻き込まれているのだが、だからこそ余計、嫌なのだ。
…仕方ないのは、判ってる。でも…仕方ないで、済ませたくない。だったら…
俺に、何が出来る?
おおきな瞳が見上げた先。初夏の空は、高く、どこまでも高く。
…ねえ、…俺に何が出来るんですか…?
誰にともない問いかけは、蒼穹の果てに吸い込まれた。
晴れぬ瞳は、もうひとつあった。
…なんでだよ。なんで俺は仇討ちしちゃいけないんだよ。
殿はこうして、軍を動かして父上さまの仇を討てるってのに、俺は…。
憎しみの光に燃える目が、先行する赤い帆の船を睨む。
それは、凌統…、凌公績の瞳。4年前、黄祖との戦で、あの赤い帆の船を指揮する甘寧に、父を討たれた・・・・・
…いや、そんなこと、考えてもいけない。
自分を厳しく叱ってはみたが、どうしても、目があの帆から離れない。
…何やってんだ凌公績!殿にどれだけご恩があるか、考えてみろ!
本当は俺は今頃ここにはいない筈だろう。戦陣で同僚を殺した罪で、首を刎ねられている筈だろう!
苦々しげに噛みしめた唇から、うっすらと血の味がする。
思い出す。二年前。麻屯を攻略した時。
酒の上でのことだった。俺も、相手も、酔っていた。
相手。督の、陳勤。
あんまり、人もなげな振る舞いをするから、俺は、我慢できなくなって、「いい加減にしろ!」と怒鳴った。そしたら。
「何言ってやがんだこの若造!だいたいてめえは…」
十倍くらいの罵声が返ってきて。怒りで、俺の頭は、煮えくりかえって。
「親父がちょっとばかし手柄立てたからって、いい気になってんじゃねえよ!嬉しそうに部曲引き継ぎやがって…」
そのひとことで、何かが、切れたんだ。
だって俺は…、武官になりたくなんか、なかったんだから。
どんな思いで、俺が、文官の道を諦めたか…、何も知らないで、あいつは、あいつは…
「馬鹿野郎っ!」
気がついたら。剣が、鞘から、走っていた。
腹を刺されて、あいつは倒れ。とどめを刺そうとした俺は、皆に、引き離されて・・・・・
「江夏の城が見えて参りましたね」
暗い深みに落ちてゆきかけた思念は、部下のひとことに引き戻された。
「あれが、そうか」
目を上げれば、対岸。少し本流から引っ込んだところに、江と平行に長く伸びた城壁。
下手をすれば、こちらの本拠である柴桑より、立派かもしれない。
「今回は、敵は出ておりませんね。湾の奥に潜んで守りを固めているのか…」
4年前も従軍していた部下は、軽く首を傾げて言った。
「前は違ったのか?」
「ええ、前は…、湾の手前に散開するような形で、陣を広げておりまして…」
言い差して、部下が黙り込む。
何を言おうとしたのか何となく判って、凌統は面白くなさそうな顔をした。
前の時と今では、違うことがある。
あの忌々しい赤い帆の船の指揮官…、甘寧の存在だ。
前回は、こちらには、このあたりの長江に詳しい水軍の将はいなかった。あの時敵方にいた甘寧は、いま、この孫軍にいる。
このあたりで流れが速いのはどこか、深さはどうか、…そういったことが全部こちらに伝わっているのだ。こちらの船は自由に動ける。自分の庭を動くようにだ。前回よりも数が増え、練度を増したこの水軍は。
だから、本流に出て迎え撃つのは不利と、…奴らはそう判断したのだ。
見たところ湾の入り口は狭いようだ。一度に沢山の船は入れない。どうしても少しずつ入ることになる。そこを叩けば…
「難しい戦になりそうですなあ」
思ったことを先に言葉にしたのは、部下の方だった。けれど。
「…そんなことは言ってられない。殿の恩義に報いるには、どうでも戦功をあげなきゃ…」
こいつを生かしておいてよかったと、殿に思っていただかなくては。
ぐっと唇を結んだ凌統を、部下は、頼もしげに見た。
「その意気です。それでこそ、父上のようにすぐれた将におなりになれますよ。何せ父上は、あの子明殿と並んで先鋒を任されたお方ですからな」
「…そう、らしいな」
その戦の話を現地で聞くのは、無論初めてのことである。
「そうです。あの時、敵の水軍は扇を広げたような形で散開しておりましてな。我々と子明殿の軍は、その、扇の要の位置を目指しておりました」
部下の指し示す湾の入り口を、凌統は厳粛な目で見遣った。
扇の要の位置。…両翼から包囲されかねない、危険な位置である。そこの攻略を任されたということは、父の腕を殿は買っていてくださったのだ。
…そうか。父はあそこで、死んだのか…。
「中央…、敵旗艦とぶつかったのか?」
あの戦はこちらが押していたのに、甘寧が黄祖を守って逃げたのを追い切れず、勝てる戦を逃したのだと聞いている。
黄祖の旗艦はいずれ、中央にいたのだろう。そこで、父はあいつとぶつかって…
「いえいえ、こちらは皆そう…敵旗艦は中央だろうと思っておりましたんですが、あの黄祖めは卑怯で。左翼におりましたんです。見えますか、あの左手、岩や何かが点々としていて見通しが悪うございましょう」
「うん」
「黄祖の旗艦は主力を引き連れて、あの先に潜んでおりましたのですよ。子明殿がそれに気づかれましてな」
あっちに何かやばいものがいる気がするから、行ってみると。こっちの狙いを悟らせないよう、凌軍はそのまま直進してくれと…
「その通りでございました。…父上があの湾口のあたりで矢を受けられた時に、ちょうど子明殿が左翼の敵主力に突っ込んでくださったのです。それで彼らが混乱しておりましたから…、我々も無事撤退することが出来ました」
そうでなければどうなっていたか判らないと、部下は感謝の口調で言った。
「そっか…」
一瞬。
何か妙なことを聞いたような、違和感にも似たものが、腹の底で頭を擡げたのだが。
その時は、父が討たれたその場所が、目の前にあったものだから。
父を殺された恨みと…、自分が夢を諦めざるを得なくなったという怒りと、二つの感情が若い思念を圧倒した。
父が討たれた江夏の湾口を、凌統の鋭い目が睨む。
「黄祖は…殿の仇ってだけじゃない、俺の仇でもあるよな。…何としても、討ってやらなきゃ…」
「そうですとも」
甘寧を討つことが許されないなら、せめて、黄祖を・・・・・
…父上があの湾口のあたりで矢を受けられた時に、ちょうど子明殿が左翼の敵主力に突っ込んでくださったのです…
今聞いたことが意味するものに、凌統はまだ、気づいていない。