Act.3〜A.D.207 柴桑


「阿蒙っ!」
 孫家の館に
入った途端、胴間声に呼び止められて、呂蒙はむっとした顔になった。
「子敬殿!阿蒙って呼ばないでくれって言ったじゃないですか!俺だってもう子供いるんだし子明って字もあるし…」
「興覇が戻ったってのは、ほんとか!」
 呂蒙の抗議を完全無視して、子敬…魯粛が喚き立てた。
 …何をそんなに焦ってるんだろう?
「ええ、今日…」
「そうか…」
 今度は難しい顔になった魯粛を、おおきな瞳がきょとんと見上げた。
 …どうしたんだろ?興覇と子敬殿って仲悪かったっけ?けっこう仲良さそうにお酒飲んだりしてたと思ったけど…
 魯粛という男は商人のあがりで…今も身内に商売をさせているから「商人で」と言った方がいいのかもしれないが…、甘寧に言わせると「型破り」な孫家の中でも、度はずれて型破りな男である。
 とにかくワガママ勝手で、張紘が苦笑して言ったところでは、「作法も何もなっていない」。先代の孫策に兵糧として蔵をひとつまるまる提供したというような恩がなければ、…そうして今も呉の財政の穴を彼の手腕で埋めているのでなければ、いつ放り出されても仕方のない男である。
 今彼が付いている「参謀」という職だってそうだ。…彼が自分で作った、この孫家にしかない職なのである。孫権の相談役とでも言うべき地位なのだが、張昭に聞いたところでは、漢の職制にそのようなものはないらしい。
 …だから、しょうがないじゃん、字、書けなくても…
 「参謀」が書けずにさんざんからかわれたことを思い出すと、人の良い呂蒙でも、恨み言の一つも言いたくなってくる。自分は小さい頃から戦場に出ていて、学問などする暇もなかったのだ。
 まあ、しようと思ったこともないのも、事実だが。
 最初の主人であった先代の「殿」が、どちらかというと学問などバカにしてかかっていたから、その影響かもしれない。実際、孫策はさして学問もせずに主君と仰がれる地位に登り詰めたのだ。ならばただの武官である自分ごときには要らぬものであろう。呂蒙は、そう思っていた。
「興覇と喧嘩でもしたんですか?」
「・・・・・いや。」
 しかし魯粛の顔は冴えない。これは、喧嘩したすぐ後で甘寧の異動があって仲直りをする暇がなかったに違いない。そう、呂蒙は断定した。
「…大丈夫ですよ。もう一年経ってるんだから、興覇きっと忘れて…」
「喧嘩じゃないっつったろ!」
「・・・・・?」
 だったら、何なのか。
「あら興覇もう戻ったの」
 尋ねようと思ったところで、晴れやかな声が響いた。
「弓腰姫っ!!」
 魯粛の眉が吊り上がる。
「また男の前にうろうろ出てきやがって!!あんた仮にも孫家の姫なんだぞ?!もうちと姫らしくしろってんだ馬鹿野郎!」
「その姫に馬鹿野郎って言ってるあなたは何なのよ」
 魯粛の罵声を一笑に付したのは、孫権の妹、仁。魯粛が、うっと詰まる。
「儂はなあ…あんたが嫁に行けなくなると思って…」
「行けやしないわよ、どうせ。知ってる癖に」
 それはそうだろうと、呂蒙も思う。
 何せこの「ひめさま」は…剣を取らせては並みの男では到底敵わぬ腕前だし、弓が、また。女の細腕では強弓を引くわけにはゆかぬが、狙いの正確さは怖ろしい程だ。馬にも平気で乗るし、奥も表も気にせぬじゃじゃ馬。
 …孫家もおっきくなったもんな。釣り合うようなところならきっと作法にうるさいだろうし、ひめさま、息が詰まっちゃうよね。
 一人納得している呂蒙であった。
「早かったのね。…あと2、3日かかると思った」
「興覇の船は長江一早いんですよ!」
 自分が推挙した男のことだ。嬉しそうに、呂蒙が言う。
「それは知ってるけど…、江、荒れたから…」
「あれくらい興覇には何でもないですよ!」
 呂蒙は得意げに微笑んだが。
「そ…ね」
弓腰姫は、ふと、遠い目をした。
「その操船術…、皆に仕込んで貰うにはどのくらいかかるかしら。1年で足りるかしらねえ…」
 …なんのことだろう。
 呂蒙は内心首を傾げたが、魯粛の方は顔色を変えた。
「おい!もう、決まりか?!」
「陸家の情報だけど…、出陣の触れが出たって」
 ちっと、魯粛が舌打ちをする。
「袁家もおしまいってことかよ」
「伯言はそう見てるようね」」
「…陸家の総帥がそう言うんなら、そうなんだろな。…っきしょう、早すぎんだよ!袁家のボケナスどもが…もうちと頑張ってくれると思ったによ…」
「内輪もめがあったんじゃねえ…。兄弟仲良くが正解ね、やっぱ」
「劉表…劉表はどうなんだ?動かねえ…か、あいつは」
「そ」
「けど…、曹操だって、動くんじゃねえかとか警戒しそうなもんだろが。あそこ今劉予州いるんだろ?だったら…」
「絶対ないって何とかいう軍師が言い切ったそうよ。東部の知り合い…」
「郭奉孝?」
「ああ、それそれ」
「あンの野郎死んでくれねえかな、ったくよお…」
「あら、天下の魯子敬が、敵わないって認めるわけ?」
「うっせーなあっ!」
 ぽんぽんと目の前で飛び交う言葉。だが、呂蒙にはわけがわからない。
 伯言はもちろん知っている。陸伯言。出陣の触れということは、山越討伐にでも出るのだろう。
 劉表も、判る。自分も何度も戦った相手だ。荊州の…。
 曹操の名前も聞いたことがある。彼が徐州に攻め込んだために、張昭や張紘は江の南に逃れて来たのだから。
 だが、曹操にしても袁家とやらにしても、遠い北の、朝廷とやらにいる人々である。
 その彼らが、陸遜の山越討伐や、甘寧が柴桑に戻ったことと、いったい何の関係があるのか。
 劉表がどうかしたのか?いや、荊州との国境はここしばらく落ち着いている筈だ。
 それに…、軍師?カク…何とかいうその人が、何かしたのだろうか?魯粛が敵わないということは…商売敵か何かか?
 わからない。
「子明?」
 不意に話を振られて、呂蒙は飛び上がった。
「どう思う?あなたの軍、1年で興覇の軍みたいになれる?」
 …これなら自分にも答えられる。
「…難しい、と、思います」
 そう。船の操り方もさることながら。
「結局あれなんです、興覇が江をよく知ってるってことなんですよ。深さや…流れや。季節によっても変わりますし…、1年…、せめて2度は季節が廻らないと…」
「じゃ、興覇が一緒なら、出来る?」
「それは、ええ」
 …なぜこんなことを訊かれるのだろう。
 話が…見えない。
「んだよ、興覇興覇ってそればっか」
 魯粛が鼻に皺を寄せた。
「そんないい男かよ、甘興覇は!」
 にやり。
 そんな擬音が似合いそうな感じで、仁の唇が引き上がる。
「ええ、とーっても」
「えー?ひめさま興覇に会ったんですか?」
 呂蒙は、びっくりした。
 会ったとすれば、異動前だろうが…、彼は自分には何も言っていなかった。
「ええ、ちょっとね。錦帆賊の甘興覇が、どんな男か見たくて」
 弓腰姫の微笑みに、ほんの僅か、影が射した。
 やはり彼は呂蒙には何も言わなかったのか。
 そうだろう。…呂蒙が周瑜に心酔しているのは、見れば判る。その周瑜が何か企んでいるかもしれないなどと…言える道理もないだろう。
 それに。
「…ひめさま?」
 見つめてくる、おおきな瞳。秋の月のように、澄んで、綺麗で…。
 無理だ。
 こんなきれいな瞳に、醜い権力争いや政に関わる陰謀など、映るはずがないのだ。東呉内部に暗闘があるなどと言っても、信じてくれるのかどうか。
 さっきの話にしたところで、…呂蒙にはきっと、判っていない。
 魯粛もそう思ったのだろう。
「無駄無駄。阿蒙には難しいことは判らねえって!何てったって阿蒙なんだから!」
 呂蒙の顔が悔しそうに膨れた。だが…口で言い返さないのは、本当に判っていないからなのだろう。
「ほっときなさい、子明。子敬はね、興覇にヤキモチ焼いてるだけだから」
「え?」
「おい!弓腰姫!」
 魯粛がくわっと吠えたけれど、…仁は構わず言葉を続けた。
「わたくしが興覇をいい男だって言ったからね、悔しがって八つ当たりしてるのよ」
 こんな綺麗な瞳に、余計なものを見せたくなくて。
 ああ、と、納得したように、呂蒙がぱあっと笑顔になった。
「違…、誰がお前みたいなじゃじゃ馬に!!バカにすんじゃねえっ!」
 魯粛の方は、怒ったけれど・・・・・
「だいたいお前らがそやって甘やかすからこいつだっていつまでも阿蒙なんだ!」
 眉を吊り上げて。顔を真っ赤にして。
「甘やかしてるわけじゃ…」

「甘やかし以外の何だよっ!曹操が来るかもしれねえっつーのに武官が何の心構えもなくてどーすんだよっ!!」

 呂蒙の顔から血の気が引いた。

「子敬!声が高いっ!!」

 ぴしりと厳しく叱咤した声は、先程までのものとは違う。この地を治める孫家の姫に相応しい、凛とした声。
「ひめさま…、どういうことですか?」
 星の瞳に映るのは、戸惑って見つめてくる、秋の月。
「曹操と…戦になるんですか?禁軍と戦うんですか?」
「子明」
 判っている。今は乱世。誰も無垢ではいられない。
 ああ…けれど、けれど。こんな澄んだ綺麗な瞳に、何が言えるというのだろう。
「…曹操はね、天下を獲りたいって思ってるの」
「天下を」
 …そうよ子明、死んだ伯符兄上が思ってたようにね。
「だからね、邪魔するものがいなくなったら、当然…」
「こっちに…攻めてくるんですか?」
「項王と劉邦の話、知ってるでしょ?天下の統一となったら、この江東も入るわ、当然」
「・・・・・そ、か…」
 考えるように何度か、瞬いて。
「袁家が…邪魔してたんですね」
「そう」
「でも…曹操がもう勝ちそうだってことなんですね」
「ええ」
「劉表は邪魔しそうにないんですね」
「ついでにいえば益州の劉璋もね」
「…戦うんですよね?」
「…多分ね」
「じゃ、それまでに水軍、ちゃんとしなきゃだめですね。曹操が江を渡れないように」
 …どうしてそんな話でこの子はこんなに明るく笑えるんだろう。
「大丈夫ですよ!ひめさまは俺がお守りしますから!」
 …言えない。とても、言えない。
 戦えるかどうかすら判らないのだなんて…そんなことはとても、この子には言えない。
「戦えりゃの話だけどな」
「子敬!」
「そだろ?うちには未だに漢朝に惹かれてる奴もいる。降服しろって言い出すかも…」
「子敬!止めて!」
「例えば漢朝べったりのあの・・・・・」

「子敬っ!!」

 睨み合ったのは、ほんの一瞬。
 むっとした顔の魯粛が、ついと踵を返した。
 弓腰姫が、溜息をつく。

「ひめさま…?」
 心配そうに、呂蒙が言った。
「降服って、あの…」
「大丈夫よ」
 無理にも笑って見せなければ。何も、そうと決まったわけではないのだし。
「江東の豪族連中は、戦う気でいるから。…漢朝の政で一番酷い目に遭ったのは、彼らだもんね」
 江の北と南では、言葉も違う、風習も違う。
 北からやってきた支配者たちは、彼らのことを野蛮だと言った。言葉を嘲り、風習を蔑み、他のどこよりも厳しく税を取り立てた。
 自分たちが治めやすくなるように、豪族間に不和の種を蒔いた。
 …ある程度は仕方ないのかもしれない。ここは劉邦と天下を争った項王の故地なのだから。
 けれど…、それは、400年に亘って続き。
 自分たちを差別する北の者たちに対する憎しみに、この江東の人々を、骨の髄まで染め上げたのだ。
 陸遜が、言っていた。北で、こちら出身の者が官職に就こうと思えば、人の三倍の努力をし、三倍の賄賂を積まねばならぬと。
 それでもことあるごとに言われるのだと。訛りが酷くて何を言っているのか判らない、作法が野蛮でなってない、と。
 だが、面と向かってそう言う者は滅多にない。楚の時代からの評判が守ってくれているのだ。南の者は気性が荒い、怒らせると何をするか判らないという評判が。
 けれどもし、戦いもせずに曹操に降ったら…
 …脅せば言うことを聞くと思われてしまったら、この先どれほどの差別がわたくしたちを待っているか。
 今ここにいる者だけでなく子孫のことまで考えれば、戦わずに屈するという選択肢は、ない。
 勝てぬ戦であっても、せめて、曹操の脚に噛みつくくらいのことはせねばならぬのだ。江東の誇りのために、生まれてくる子供達のために…
 そうですねと頷いた呂蒙の頭には、もう、魯粛の最後の一言は残っていないのだろう。
「心配要りませんよ、俺たち負けたりしませんから!」
 仁がふと、遠い目をした。
「ね、子明」
「はい?」
「何があっても…兄上を捨てないでくれる?」
「当たり前じゃないですか!」
「約束できて?」
 おおきな瞳が、僅かに揺れる。
「何でそんなこと言うんですか?判ってるでしょ?」
「…ありがと」
 辛うじて答えた笑顔には、しかしいつもの鮮やかさはなく。
 それを、どう取ったのか。
「やだなあひめさま、弱気になんかなっちゃ駄目ですよ!らしくないですよ!」
 励ます口調で、呂蒙は言った。
「公瑾の大将だっているんですし!なんにも心配要りませんから、ね!」
 じゃあ、と、ひとこと残して。
 明るく笑って向けられた背中。遠ざかる、…ぱたぱた。軽い足音。

 言えない。…とても、言えない。
 あの子には、とても言えない。

 戦えないかもしれない理由。それは。

 …その公瑾はその時わたくしたちの味方になってくれるかしら?

 周家は漢朝にべったりの家だ。
 もし、周本家が、公瑾に、兄上に取って代わってこの江東を纏め、漢朝に帰順させることを選んだら?
 そうなれば、朝廷で周家の発言力は大きくなる。曹操を抑えることだって出来るかもしれない。
 わたくしは知っている。
 一度彼らはそれをやろうとした。…伯符兄上の葬儀の日。
 そうでなければあの日、公瑾はなぜ、自分に預けられた全軍…荊州方面軍全てを連れてとって返すような真似をしたのか?
 単身で帰った方が早かったし、それで十分事足りた筈だ。劉表が動かなかったからいいようなものの、もし、あの時奴等が動いていたら…。

 …公瑾は信用出来ないのよ、子明…!!

 だから兄上は興覇を呼び返した。公瑾の思うように動かぬ人間を、一人でも多く軍に入れておく為に。
 万一公瑾が裏切った時、軍が軍の体を成さぬでは、困るから・・・・・

 けれど。
 あの澄んだ瞳に向かって、お前が心酔している公瑾の大将は信用出来ないなんて、言えるだろうか、…いや、言えない。
「お前らがそやって甘やかすからこいつだっていつまでも阿蒙なんだ!」
 そうかもしれない。でも…、でも。
 今は乱世、手を汚すのは仕方ないけれど、…それでも。

 魂まで汚すのは、わたくしだけでいい・・・・・・







 …ひめさま、なんであんなこと言ったんだろ。
 報告書を提出して、帰る道。
 呂蒙は小さく首を傾げた。
 …俺、孫軍で育ててもらったようなもんなんだから、捨てないよ。当たり前じゃん。それってとうちゃんかあちゃん捨てるようなもんだもの。
 なのにどうしてあんなことを言われたのか。
 …ひめさま、…何か気にしてるみたいだったけど・・・・・
 判らない。
 …子敬殿にもなんかバカにされたみたいだったしなあ…。
 確かに、二人の会話についていけなかったのも、曹操のことなんて全然考えていなかったのも、事実である。馬鹿にされても仕方ないのかもしれないが。
 …これって学問してないから?学問したらああいうことも判るようになるのかな?
 情けない。
 ひめさまが何を悩んでるのか判らないし、…それどころか話にもついていけないなんて。

 …俺、ひめさまのことは絶対、お守りしたいのに・・・・・

 瞬き始めた夕星が、そのひとの瞳のように思えた。

 …俺、ひめさま、好きだし。



 ・・・・・それが恋だとは、呂蒙は知らない。