Act.2〜A.D.206 柴桑


 孫家の館から船着き場までは、町を抜けるより裏道を通った方が近い。
 …んだってんだよ、ったく。
 力一杯蹴飛ばした石が、目の前の楠にぶち当たり、白っぽい樹皮を弾き飛ばした。
 …俺を仇だ仇だって狙ってやがんのはあのガキの方だろ?俺は何にもしてやしねえ。手下にもさせてねえ。
 今日、孫家の館に呼ばれた。
 公績…凌統のことだ…がどうにもお前に対するわだかまりを捨てられないらしい、悪いが駐屯地を移してくれないか。
 本当に申し訳なさそうに、孫権は言ったものだ。
 …なんで、俺なんだ?あいつの方動かしゃいいじゃねえかよ…
 水軍を鍛えたいからという周瑜の意向で、この柴桑に近い地に移って、一年と少し。
 家を買った、女房を貰った、もうすぐ子が産まれる。
 やっとこの地に根を下ろすことが出来て、喜んでいた、手下たちの顔。
 …あいつらに、何て言やいいんだ。
 戦場の習いも判らんガキのせいで道理に合わない恨みを買って、挙げ句に、これだ。
 結局ここでも水賊あがりは水賊あがりとしてしか扱われないということなのだろうか。

 なりたくて賊になったわけではないのだ。他に生きる術がなかっただけなのだ。
 どうして自分たちが賊になるような羽目に陥ったのか…、そこのところは誰も見てはくれないのだろうか。
 故郷を追われ、家族を殺され…、それでも生きたいと思った、生きようとした、それの何が悪いのか。
 俺たちをどん底に追い込んだ連中は、今日ものうのうとメシを食ってやがるというのに。
 それでも必死に生きようとした俺たちばかりが、何故、咎められねばならないのか…
「ち…っくしょう…」
 ばしん。
 悪い方にしか向かない思考を、平手にして楠に叩きつけた途端。

「荒れてるわねえ」

 場違いに晴れやかな声が頭の上から聞こえ…、見上げて甘寧は目をむいた。
 若葉に覆われた楠の、大枝のひとつに、宵の明星。
 違う。星ではない。それは、女の瞳。
 太い枝に腰を降ろして、にこにことこちらを見下ろしている。
「通ると思って待ってたのよ。甘興覇、でしょう?あなたに話があるの」
 …女がなんで木の上にいるんだよ!
 男のような衣装の中から、伸びている、日焼けした素足。
 足の裏がいやに白く見えた。
 …あやかしか?それとも、楠の精とか…
 さっき自分が蹴った石で幹に傷をつけたばかりである。
 甘寧とてこの時代の人間。楠の祟り云々が、ちらりと頭の隅を過ぎった。
「やだ、なに」
 瞳をきらめかせて、女が笑う。
「わたくしが化け物に見えて?」
 いったい何なんだ、この女。
「アンタ、何だよ」
「弓腰姫」
 甘寧の口がぽかんと開いた。
 …弓腰姫、だって?
 呂蒙が言っていた。孫家には、主君である孫権とはひとつ違いの姫御前がいると。女だてらに剣を取っては並みの者では敵わぬ腕前で、周瑜に言わせればとんでもないじゃじゃ馬で…
 おおきな目をその時だけちょっと細くして、「みんな弓腰姫って呼んでるんだ」と。
 みんな。
 先々代や先代から仕え、孫家にぴたりと添うてきた者たち。
 まだ仕えて日が浅い、ただの臣下の一人にすぎない自分は、姿を見たこともなかったけれど…
「…嘘だろって顔ね」
 どこか値踏みするような視線が、じっとこちらを見下ろしていた。
「…ったり前だろ…」
 それは、だって。
「ンな…、身分のある女が、男の前に出て来っか?普通…」
 市の物売り女や田畑で働く農民や…、そういう、いわゆる庶民であればともかくも。それなりの家に生まれた女が、人前に出ることなど、あり得ない。
 それがこの時代の常識であった。
「身分なんか」
 軽く肩を竦めて、女…弓腰姫が言う。
「うちはそんな上品な家じゃなくてよ。じいさまは海商だったんだもの。海賊まがいのこともやってたんだし」
「にしたって、今は…」
 この東呉を統べる孫家の姫だ。その姫が自分のような…賊あがりの荒くれの前に出るなど…
「孫家が有り難いってんなら、こう言いましょうか。そんな家の姫の名を偽って名乗ったりするバカはいないって」
 …それは、まあ。そうだろうが。
「納得した?」
 頷くしかない。
 くす、と笑った弓腰姫が、また、肩を竦めた。
「…ほんとは孫家が有り難いなんてこれっぽっちも思ってないくせに」
「お、…俺は…」
 いったいこの女は何が言いたいのか。自分が謀叛でも企んでると…
「手下の人たちの為なんでしょう?兄上に頭下げたの」
 図星を指された甘寧が、絶句した。
「…あ・・・・・」
「判ってるわよ、兄上は。わたくしもね。そんなあなただから死なせたくないの」
 さらりと何気なく言われた言葉が、悪寒となって、甘寧の背筋を駆け上がった。
 …死なせたくないとは、どういう意味だ?
「話、聞いてくれる?」
 頷くよりほかに何が出来ただろう。
「じゃ、上がってきて」
「はあ?!」
 …木の上で、何を、話すと。
「しょうがないでしょ。話の出来るところがないのよ」
「…んなもん、どっかの部屋ででも…」
「人払いした部屋で男と女が?」
 …それは、確かに。
 誰かにもし見咎められでもしたら、ややこしいことになるのは目に見えているが。
「ここなら人が近づいてきたらすぐ判る」
 …まあ、それもそうか。
「…しゃーねーな」
 覚悟を決めて。
 甘寧は、手近の大枝に飛びついた。





「あなたの気持ち、わたくしたちには判るのよ」
 右、斜め上。
 先程より少し上の枝まで昇って、弓腰姫は甘寧を見下ろした。
「死んだ伯符兄上がそうだったの。父上が死んだ時、下の者たちの為、仕方なく袁術に仕えた」
 皆にも随分苦労をさせた、それが心苦しかったと、きらめく瞳がその時だけ曇る。
「だからね」
 孫権としては甘寧の願いを…手下たちにまっとうな暮らしをという願いを叶えてやりたいと思っている。
「…甘いな」
「そうかしら」
「そうともよ」
 君主が情に流されては、ろくなことにならない。
「そんな甘いことで、俺みたいなどこの馬の骨とも判らん奴を正規に召し抱えてんじゃ…」
「悪ぶっても駄目よ」
 愛想よく微笑まれて、甘寧は、返事に窮した。
「あなたそんな男じゃないわ。兄上にだって人を見る目はある。…なかったら君主なんてやってられやしないわよ」
 そうかもしれないと、甘寧は思う。
 こちらにきて、判ったことだが。
 孫呉は、一つの国というより、豪族の連合体のようなものなのだ。
 戦ということになれば、豪族たちはそれぞれ自分の領地から兵を率いて集まる。孫家とても同じこと。
 その領地が他の豪族よりいくらか…そう、まだ、「いくらか」でしかない…広いというだけ。そのぶん集められる人数が多いというだけ。
 その人数さえ、統治の仕方を誤れば、いつ他の豪族の所領に流れてしまうか判らない。
 また、万一全ての豪族たちが手を結んで孫家に背いた場合、抑えられるほどの力は、孫家にはない。
 今は、その中でも最大の豪族である陸家がはっきりと孫権支持を打ち出しているから、どうやら収まっているが…
「…中でいろいろあるのは知ってるけどよ」
 いつ中から崩れるか判らない。甘寧が仕えると決めた国は、そういう国であったのだ。
 大きく分けて、今、孫呉には二つの勢力がある。
 ひとつは、孫策の夢を引き継ぎ、天下に撃って出ようとする勢力。周瑜がその筆頭だ。
 もうひとつは、江東の安定を優先させ、この地にきっちりした地盤を作ろうとしている勢力。陸遜がその筆頭になる。
 この両者の間で孫権が舵取りに苦労していることは、仕えて日の浅い甘寧にも、見れば判った。
 孫権自身は陸遜の考えに近いところにいるらしいということも・・・・・
「だったら少しは考えなさいな。…でないと本当に殺されるわよ」
「…殺される?あの公績のガキにか?」
 むっとしたように甘寧が眉を寄せた。
「アンタ…、俺があんなガキに…」
「殺られるような男じゃない。んなこと見れば判るわ」
 そうでは、なくて。
 苦笑まじりに、弓腰姫は言った。

「わたくしが言っているのはね。今、誰かがあなたを殺せば、公績がやったとみんなが思うってこと」
 
 ざわざわと、枝が揺れる。
 吹き抜けた爽やかな初夏の風は、しかし、いいようもない悪寒を連れて来た。

「…俺を、殺す?…誰が・・・・・?」
 まだたいした地位も持たぬ、下っぱの新参者だ。使える兵なんざ、手下の50くらいだ。
 そんな奴を殺して、どうしようと…
「なんで俺が殺されなきゃならないんだ?」
「下っぱのうちに殺した方が騒動がなくていいからに決まってるじゃない」
 今の地位で終わるひととは思えないけれど。
 悪戯っぽく微笑まれ、甘寧はまた、言葉に詰まった。
 …この、女。なんか…調子狂う。
「あなたは兄上が甘いと言うけれどね」
 目を厳しくして、弓腰姫が言う。
「あなた兄上を裏切れない。でしょ?」
「…裏切るって…」
「そんな男だと思ってるわけじゃないわよ。でもね、…もし万一しようと思ったとしても」
 鮮やかな笑みとともに言われた言葉は、凄まじかった。
「手下の人たち…、その人たちの家族を、兄上が抑えたら…、ねえ」
「あ・・・・・」
 確かに、そうだ。
 自分の身内ならまだしも、手下の家族を人質に取られたら。甘興覇の名にかけても、彼らを見捨てることなど出来ない。
 自分の気性を孫権はよく飲みこんでいるということか。
「あなたの実力はみんなが知ってる。江夏で、うちの最精鋭が…、子明があなたを抜けなかった。それほどの男を兄上が手放すもんですか」
 東呉の内部には暗闘がある。孫権が確かに信頼出来る将など、いくらもいるわけではない。
 信頼できてなおかつ実力のある将…、孫権はそれが欲しいのだ。
 …俺に、そうなれって、ことかよ。
 お前の望みは叶えるから、俺の望みも聞いてくれと・・・・・
 …つか…、無理にでもそうなって貰うってんだな、…人質云々が出てくるんじゃ…
「確かに…アンタの兄貴、甘いばっかの人じゃねえな」
 あいつらに人がましい暮らしをさせたいという願いが、とんでもなく高くついたことを、甘寧は悟った。
 自分を柴桑から遠ざけようというのも…、凌統から遠ざけようという狙いではない。
 自分が、殺されれば騒動が起きるほどの地位を掴むまで、権力の中枢から遠ざけておこうということなのだ。
「…わーったよ」
 まあ、買ってもらえているというのは、悪い気分ではない。
「あの場でアンタの兄貴の口から、そうとは言えねえよな」
 御前には他にも人がいた。文官やら、何やら。
 そんなところで…言えるわけがない。味方の誰かがお前を狙っているかもしれないなどと。
 自分が誤解したのではと気を遣って、この女はわざわざ来てくれたのか。
 肩を竦めた弓腰姫が、鮮やかに微笑んだ。
「変に気を廻されちゃたまらないもの。それに…」
 ふっと、鮮やかな笑みが翳る。
「わたくし、気になることもあってね」
 鋭さを増した星の瞳が、射抜くように甘寧を見つめた。
「あなた、…公瑾に恨まれるようなこと、した?」

 …周公瑾?

「いや…?」

 恨みを買ったという覚えはない。けれど。
 自分が孫権に目通りした日の、冷たい瞳が蘇る。
 そうして…どこか奇妙な顔で彼を見ていた、あの陸伯言という男。

「人を疑うのはよくないことだけれど」
 吐息混じりに、弓腰姫が言った。
「この間麻屯を攻めた時、公績ね、人殺したのよ。…その話聞いた?」
「ああ」
 殺されたのは、督の陳勤という男。
 陣中で私的な争いを起こし相手を殺したのである。死罪になるべきところであったが、凌統の方に咎めはなかった。
 孫権が凌統の若さを惜しんだのだろう、殿は甘いお方だと…、もっぱらそういう評判であったのだが。
「公瑾が強引に公績を庇ったのよ。…父の敵も討てないのかと侮られてのことだ、むしろ孝子というべきではないかと…。自分が咎めを受けてもいいとまで言ったわ」
「どこが孝子だよ!」
 甘寧が毒づいた。
 こちらに来てからずっと続いた親の仇呼ばわりにはもう、ほとほとうんざりしているのだから。
「あいつのせいで俺がどれだけ迷惑…」
「判ってるわよ。ただ…、あの子はそれは前途のある子だけれど、…公瑾がそこまで庇うほどの将とは、わたくしには思えない」
 手厳しいことをさらりと言って、弓腰姫が甘寧を見つめる。
「狙いがあなたの方だとしたら別だけど…。他に庇う理由が思いつけないの」

 また、風が鳴る。あの悪寒を乗せて。
 それは傾いて来た陽射しのせいなのか。…いや・・・・・
 
「ねえ、興覇」
 声は、低く。
「答えて。…あなた、本当に公績の仇なの?」
 見つめてくる瞳は、鋭く。
「…あいつがそうだってんなら、そうなんだろ」
 他に、答えようがない。
 自分はその、凌統の父であったという男の顔も知らないのだから。
 弓腰姫が溜息をついた。
「全く。あなたが否定しないから、皆、あっさり納得しちゃったんだろうけど…、ほんとモノ考えないのね、うちの男どもは」
 いつの間にか日が落ちていた。俄に濃くなった陰の中、表情が読めない。
「いいこと」
 誰もあなたに言わなかったのだろうけれどと、陰の中から、声は言う。
「凌家は中くらいの豪族なの。自分ちの食客連れて、戦場に出てたの」
「…どういう意味だ」
 言葉に。嫌な感じがある。
「どういう意味もなにも…、そういう意味よ。子明の配下じゃなくて、別の隊だったってこと」
 何かが頭の奥で光った。
「それは・・・・・」

「あなた、『凌』の旗立てた船に当たった覚えはある?」

「いや…」

 ・・・・・ない。

 呂蒙隊で、手一杯だった。…他にも何か来ていたとしても、少なくとも自分の船はぶつかっていない。

「わたくしには戦場の布陣はわからない。でも、子明に突っかかられた軍が他まで相手にする余裕があるなんて、わたくしには思えない」

 陰が、さらに濃くなった。

「…覚えておいて。わたくしたち孫家の者は、あなたに死んでほしくはないの」

 突然、枝が鳴った。
 呼び止めようとしたときにはもう、人影は地上に舞い降りていて・・・・・



 そうだ。
 俺はあの、江夏の戦で、子明の隊に翻弄された。
 黄祖を守るのに精一杯で、他に目を向ける余裕などなかった。
 凌操とかいう奴を討っただろうと言われたとき、確かに違和感は感じたのだ。そんな、敵将を討ち取ったという自覚はなかったから。
 だが、余裕のない戦だっただけに…、流れ矢か何かがそいつに当たらなかったとも言い切れなくて・・・・・
 違うのか?
 最初に感じた違和感の方が正しかったのか?俺はあいつの仇じゃねえのか?
 だったら。
 なんで俺のせいになってんだ?誰がそうしたんだ?
 …あの子はそれは前途のある子だけれど、…公瑾がそこまで庇うほどの将とは思えない…
 周瑜…か?
 …なんで・・・・・
 零れたのは、小さな舌打ちの音。
 今考えても仕方ない。まずは、俺に凌操が討てたのか、それを確かめる方が先だ。
 それにしても。
「…凄え女だな」
 毒気を抜かれたように、甘寧は首を振った。
 完全に手玉に取られていた。女と喋ってるのだということさえ、途中からは忘れていたような気がする。
「あいつが君主やった方がいいんじゃねえのか?」
 さわさわ。風が渡る。
「…っ」
 降りる途中で掌を引っ掻いたのは、幹についた新しい傷。自分が蹴った石の当たったところ。
 その時の自分が情けないほど子供じみていたように思えて、覚えず唇に苦笑が浮かぶ。
 …主君に仕えるってのも、難しいんだな…
 今更のように、そんなことを思って。
 見上げた空。宵の明星。
 …もうちと可愛げがねえと、ヨメに行けねえぞ?
 浮かんだ面影に毒づいて、甘寧が自分の船へと急ぐ。

 …わたくしたち孫家の者は、あなたに死んでほしくはないの。

 纏わりつくような五月闇が、今夜はひどく、不愉快に思えた。