Act.1〜A.D.204 柴桑


「どうした。相談とは」
 ちょっぴり堅くなったおおきな瞳に、初老の男は優しく微笑みかけた。
 男の名は、張紘…、字を子綱という。
 この東呉には、「東呉の二張」と称えられる、二人の大学者がいる。一人はこの張紘、もう一人は張昭・字を子布。二人とも、曹操の徐州大虐殺を逃れて長江を渡った人物で、先代の孫策に求められて仕官し、現在も、孫権の側近として、政権内で重きを占めている。
 狷介なところのある張昭に比べ、この張紘は、いかにもというほどの君子である。温厚な性格で、中央での文名も高い。広く人々の敬愛を集め、孫権自らが、「東部」と…張紘が朝廷から拝領した役職名である…敬意を籠めた呼び方をするほどだ。
「何か、学問の上で困ったことでもあるのか?子布どのがなんぞ難題でも…」
 呂蒙は誰からも好かれているが、中でも、二張のもう一人、張昭は、それこそ我が子のように可愛がっている。呂蒙が孫権に学問を勧められてからは、それはもう、いくらなんでも呂蒙が迷惑なんじゃないかと思うほどの気合いの入れようで指導に当たっている。流石の呂蒙も時折悲鳴を上げて、手に負えない問題などは、こっそり張紘の方に持ち込んでくるのだが…
「また…あれか?子布殿がなにか難しいことを…」
「いえ、…そういうんじゃ、なくて」
 しかし屈託ありげな顔からして、どうもそうではないらしい。
「あの…公績のことなんです」
 公績。
 最近父の部曲を引き継いだ、凌統という、若い武将の字である。
 張紘の顔が、僅かに、こわばった。
 「相談」の中身に、おおよそ、察しがついたから。

 凌統の父親は、江夏の戦いで死んだ。
 彼が信じるところでは、当時敵方だった、甘寧に討たれて。
 甘寧が呉に移ったと知って以来。彼は、「親の仇」とばかりに、甘寧の命を狙い続けている。
 周囲も放置していたわけではない。父が討たれたのは戦場の習い、強い方につくのは乱世の習いと、誰もが諫めた。しかし、まだ若い凌統には、そういう理屈は通じない。親の仇を討つのが子の道だ、殿だって黄祖を討とうとしていらっしゃる、殿のやり方を非難するのかと、理屈にも何にもならぬことを言い、しまいには感情的に喚き立てるばかり。今のところ甘寧が取り合わないから、大事には至っていないが、いつ何が起きても不思議はない。
 そう、つい、数日前も…



 呂蒙の家で、皆で飲んでいた時。凌統が突然立ち上がって、「剣舞を披露する」と言いだした。
「俺、酒入ってたし、咄嗟に、…意味、わかんなくて。止めなかったの俺だから…、俺が、悪いんですけど…」
 と、いうよりは。そもそも。二人を一緒に呼ぶなどということをしては、いけなかったのだろうが。
「俺は…、一緒に酒飲んだり、話したりしてたら、だんだんあいつらも気持ちが通じるようになってくるかなって、そう思ったんです。でも…」
 仇討ちに凝り固まった凌統は、そんな善意を受け入れられるような状態ではなく。
 舞い始めてすぐ、判った。酔って足元も定かではないといいながら、凌統の剣は、確かに、甘寧の首を狙っていた。
 当然のことながら、甘寧も、剣を抜いた…



「でも、興覇は、…あいつはなにも、公績を殺そうとかそういうんじゃなくて…」
「ああ」
 張紘は、穏やかに頷いた。
「判っているよ。自分の身を守ろうとしただけだと、そういうことなのだろう?」
「あ…、興覇、なんか言ってました?…子綱どのがいらしたってあいつ…」
「いや」
 あれはそんな、言い訳をぐだぐだ並べるような男ではない。
「話をしてみて、判った。彼は、…噂のような、乱暴な男ではないな」
 初めは自分も、誤解していた。甘寧も剣を抜いたと聞き、それは、かっとなって凌統を返り討ちにしようとしてしたことだと思った。
 だからこそ、彼を訪ねて、そういうことは止めてくれと訴えたのだが…
「でしょ!興覇はほんと、いいやつなんです!本当に乱暴な奴だったら、そんな、わけわかんないことで狙われたらとっくにキれて…」
「わけのわからないこと?」
 張紘がふと眉を顰めた。
 それは…、戦場の習い乱世の習いという立場からすれば、味方になってなお親の仇と狙おうとするというのは、理解出来ない、わけのわからないことなのかもしれない。しかしそう言い切ったのでは、あまりに、凌統が…
「あ、そういう意味じゃないです」
 慌てて呂蒙が首を振る。
「今はちゃんと判ってますけど、最初は…。興覇が言ったんですよ。その、公績の親父さんの顔なんて知らないし、あの時は自分も必死でのんびり敵将の名前聞いてる暇なんてなかったから、仇って言われても…それはそうかもしれないけど実感湧かないって」
「そうなのか?」
 張紘自身は自ら戦場で剣を振るったことなどない。しかし、そう言われれば、成る程と思う。
 甘寧は確か益州の出身…、長江を下ってきてそれなりになると言っても、江賊だったのだ。正規軍と戦った経験はないだろう。こちらの将の顔など、確かに、知っている筈もない。
「…それでは彼も驚いたろうね」
「そうなんですよ。最初は『俺、将なんか討ち取ったっけ?』て言ってたくらいで…、それでも一生懸命我慢したんですよ。ほら、手下たちのことがあるから…」
 そうだ。本人が、言っていた。
 賊をやっていたということは、他に生きる道がないということだ。彼らには、帰る故郷も、迎えてくれる家族も、もう、ない。ここでやっていくしかないのだと、耳を打つ、鋭い声で。
「ここで俺があんなガキに殺されてみろ。あいつらは、どうなるよ。でなきゃ…俺があのガキを殺したとして。その後も、俺が東呉にいられると思うのか?」
 俺を頼ってるあいつらのために、俺は…殺られるわけにも、殺るわけにも、いかねえんだと…、だからあいつを止めてくれと…
「本当に、仲間思いの、いい男なのだな」
「そうですとも!」
 呂蒙が力一杯頷いた。
「だが、お前もそうだ、子明。酒宴の時、抜き身を構えた二人の間に、割って入ったそうじゃないか」
 そんなこと。よほどに二人のことを思うのでなければ…、そして、よほどの度胸がなければ、出来るものではない。
 腕に自信がなくても、駄目だろう。何せ、話を聞いた限りでは、凌統はもうその時、見境がなくなっていたらしいから…
 けれど、呂蒙は首を振る。
「駄目なんです」
「子明?」
「…ほんとに公績のこと、思うんだったら…、あいつに言ってやる言葉が見つかる筈なのに。何か…してやれる筈なのに」
 どうしても、見つからないと。通り一遍の言葉しか言えないと。おおきな瞳が、うなだれる。
「実際、俺が二人を家に呼んだから、ああいう結果になったわけでしょう。俺の責任なんだから、止めるのは、当たり前です」
 だから。
「あの…、子綱どの、一度、話、してやってくれませんか?俺、なんども言ってきかせたんですけど…、どしても、公績…、きかないんです…」
 俺、二人とも、好きなのに。
 おおきな瞳が、本当に悲しそうに、じっと張紘を見上げてくる。
 …いい子だ。
 張紘が柔らかく微笑んだ。
「そ、だな。今度、私から、話してみようか…」
「お願いします」
 ほっとしたように呂蒙が言い、やっといつもの笑顔になった・・・・・





 …言葉が見つからないのは。
 たぶん、お前が、ふたりとも好きだからだ。
 どちらの気持ちも判るから、どちらの味方にもなれない。ただ、起こったことを悲しむ…、それが、お前だ。
 お前は「みんな好き」だからな。
 だがな、子明。
 「みんな好き」だけでは、どうにもならないこともあるんだ。
 今の公績が欲しいのは、「甘寧よりお前の方が好き」な誰かからの、言葉なんだよ…





「甘寧!覚悟っ!!」

 きいん、と、高い音。
 きらめく軌跡だけを残して、短刀は、薮の中に消え。
 そこにあったのは、ただ。剣を抜いた甘寧の険しい顔と、喉元に刃を突きつけられた凌統の青ざめた顔。
「公績っ!」
 いつもあかるい色の声が、流石に厳しい色を帯び、びくっと、凌統が、身を震わせた。
「なんで、判らないんだ!言ったろう、あれは、戦場の習いで…」
「子明、…どいてろ」
 低い声で、甘寧が言う。
「興覇も…」
「殺しゃしねえ。こうでもしなきゃあ、話も出来やしねえってだけだ。手エ出すな」
 剣に伸びかけた呂蒙の手が、ぴたりと止まる。
「…なあ、若いの」
 凌統の目を、甘寧の鷹のような目が捉えた。
「そんなに俺が憎いか」
 凌統が、必死に睨み返す。…それが、精一杯なのだろう。甘寧の放つ殺気は、それほどに凄まじかった。
「どうしても許せねえってんなら、討たれてやってもいい。だが、今じゃねえ。俺がこの国で、手柄を立てて…、そうだな、将軍になったら。そうなったら討たれてやってもいいぜ。だが、今は駄目だ」
 抑揚のない、低い声。何人もの人を手にかけてきた者の声だ。凌統の唇が、白くなる。
「手柄を立てれば、恩賞が貰える。地位が上がれば、食邑が貰える。それを手下どもに分けてやりゃあ、あいつらも人がましい暮らしが出来る。あいつらが、普通に家を持って、女房子供を養えるようになるまで、…それまで待て」
 声が、嘲るような調子を帯びた。
「おめえのようなお坊ちゃんに、何が判る。賊やるしか喰ってく道がなかった俺らの、何が判るってんだ、え?黄祖んとこにいたのも、ここに来たのも、生きるためだ。俺らみんなで、良民として、まっとうに生きてくためなんだ」
「…っ」
 言い返そうとした凌統だが…、しかし、言葉は出ない。甘寧の気が、それを、許さないのだ。
「生きる為には、人を殺さなきゃならねえこともある。それが、乱世だ。だから、詫びねえ。憎みたけりゃあ憎めばいいし、殺さなきゃあ気が済まねえってんなら、それでもいい。だがな、…今、俺がお前に殺されても、俺がお前を殺しても、あいつらはこの国にいられなくなる。賊に戻らなきゃならなくなる」
 剣を握る手に、力が籠もる。血の脈が、ぐっと、浮き上がる。
「ここで命のやりとりしようってこたあな、あいつらが全うに生きられなくても構わねえって言ってんのと、同じよ。あいつらを賊にした連中と同じこった」
 山越族だからというだけで酷い差別を続けた者や、不作で年貢が払えないからといって土地を奪い取った地主や、身内に業病に罹った者がいたばかりに村から追い出した村人や…。
「お前がそういう連中と同じなら、今、ここで、叩っ斬る。俺がお前の親の仇だってえなら、俺らにはそういう連中が仇だ。生計の道を奪われたことで、みんな、誰か死なしてんだからな。親や、兄弟や、女房や、子供や。お前も俺らの仇ってことだ。…そうだろうが」
 凌統の額に、汗が浮いた。
「俺は…、そんな…っ…」
 辛うじて、それだけ。
「…待てるか」
 見ている呂蒙も、一言もない。
「返事は」
「…ああ」
 無表情に、甘寧が剣を収めた。それなり、振り向きもせずに、歩み去る。
 凌統がその場に座り込んだ。
 …悔しいのだろう。微かに、抑えた嗚咽が漏れる。

 呂蒙は、動けなかった。

 遠ざかる孤独な背中と、座り込んで震えている背中と…、両方を見比べながら、動けなかった。
 彼は、「二人とも好き」だったから・・・・・
 


「公績」
 近づいて来たのは、張紘だった。
「お前…わたしのことを、さぞ、不甲斐ないと思っているのだろうね」
 びっくりしたように、凌統が顔をあげる。
 目線の高さを合わせるように、張紘は、そこに、屈み込んだ。
「…そう、だろう。わたしは、許都に派遣されたのに…、曹操を殺さずに戻って来たのだから。徐州で…大事な者たちを殺されたというのに」
 はっとしたように、凌統が瞬きをし。そして、激しく首を振った。
「でも、…東部さまは、主命で…」
 そこで、黙ってしまったのは。自分が主の孫権に、「仇討ちはならぬ」と言われたことを思い出したからだろう。
「辛いよな。…わたしも、辛かった」
 目を伏せた彼に向かい、張紘は、優しく言う。
「だが…、ご主君に逆らえば、臣下として不忠だ。それに、…子としてなら、仇討ちの他にも、出来ることはある」
「・・・・・・。」
「覚えているか。一緒に、崔杼と史官の話を読んだな」
 崔杼。春秋時代の、斉の国の人物である。
「崔杼が君主の荘公を殺した時、史官はどう書いた?」
「・・・・・。」
「崔杼は其の君を弑す、と書いた。そうだったな。その史官は崔杼の怒りを買い、殺された」
「…はい」
「史官には、弟がいた。その弟は、そこで、どうした。兄の仇を討ったか」
「…いいえ」
「そうだな。彼もまた、崔杼は其の君を弑す、と書き、…そして、崔杼に殺された。その下の弟は…」
「同じようにして…やはり、殺されました」
「そうだ」
「最後に残った弟は、兄の志を継いで、やはり、同じように…。崔杼の方が、殺すのを諦めました」
「そうだ。…言いたいことは、判るな」
「…はい」
「辛いのは、よく判る。だが…、子としては、他に出来ることもある。それでも敢えてご主君に逆らうのは、やはり、不忠だ。な…」
「・・・・・っ」



 呂蒙は、黙って聞いていた。
 自分には言ってやれなかった言葉を、聞いていた。



 どちらの気持ちも見抜いてしまうおおきな瞳は、どちらの味方にもなれなかった。
 多分、誰よりも傷ついたのは…





 俺、二人とも、好きなのに。