Act.4〜A.D.203 柴桑
満たされた盃の中身を、ゆっくりと舌で転がして。甘寧は、満足げな笑みを浮かべた。
「いい酒だろ?」
今宵の主人・呂範が、得意げに笑う。
「おう」
空けた盃がまた、満たされる。
染物屋を紹介してくれた礼だといって、呂範の邸に、招かれた。
どうやら新しい帆は、無事に注文されたらしい。
劉表のところでは、高官の邸なぞに招かれたことはない。どうしていいのか判らず、作法なんざ知らねえと断ったら、んなもん俺も知らねえと笑われた。呂蒙も一緒に行くというから、こうしてやってきたのだが…
確かに、堅苦しいことは何もない。甘寧は安心して盃を空けた。
ここは、劉表のところとは、違う。
「なんか…すんません。俺の方が、仕官の礼しなきゃならねえのに」
「気にすんな。どうでもあの帆は欲しかったんだ!ほれ、もう一杯」
盃が、満たされる。だが。
「…子明は?」
呂蒙は、門を入ったところで「俺ちょっと」と別れたなり、姿を見せない。
自分ばかり飲んでいるというのも悪い気がしたのだが。
「ああ、子供んとこだろ。久しぶりだからな」
そういえば、どこか、奥庭の方から、子供の声がしていたっけ。
だが…、少し、妙な気がした。
自分の子が、客人を引き留めているのなら、…子供を叱るのが普通ではないだろうか。まあ、呂蒙は、この邸では、家族みたいなものなのかもしれないが…
呂範は、甘寧の気配の変化を、鋭く察したらしい。
「あ、もしかしてあいつ、…何も言わなかったのか?」
「へ?」
甘寧がきょとんとした顔になり、呂範は小さく舌打ちをした。
「また、もう…。覇ってのは、あいつの子だ。俺が預かってるんだ」
「へえ!」
甘寧が目を丸くした。
「あいつの子って…、子明の奴、そんなこと、ひとっことも…」
「だろ。あいつ、自分のこと、全然喋らないからな」
「ああ…」
それは、そうだ。
呂蒙は、およそ、自分のことは喋らない。
隠すわけではない。尋ねれば、ちゃんと答える。だが…、自分から話題にのぼせることは、まず、ない。
「あいつ、…どっか、変わってるからな。自分のことには興味がないというのか…」
そもそも自分に対する興味や関心が薄いから、話題にしようとも思わないのだろうと、呂範が言った。
「投げやりとか…卑下とか…そういうんでもないんだが…。何てっかなあ」
呂範にも、どう説明していいのか、判らないらしい。
「とにかくだ。覇ってのは、あいつの子で。俺が預かってるのよ」
「…へえ」
あの、どこか子供っぽい男が人の父親であることが、何か、信じられないような気がした。
「信じられんか?」
「…ええ、まあ…」
「だろうなあ」
俺も信じられんと、呂範が笑った。
「本人も自覚ねえんじゃねえか、あれは」
そうかもしれないと、甘寧は思った。
「けど…あいつ、女房は…」
「ああ…、俺んとこの侍女に手をつけやがってな」
「・・・・・」
これまたおよそ信じがたいことであった。
「で、子供が出来たんだが、お前、…その子が男の名前を白状しなくて、大騒ぎになってな。いずれうちの客の誰かだってのは判ってたんだが…、お陰で、俺は、公奕(蒋欽)に濡れ衣着せちまって、恨まれたよ。」
「あいつ…正直に名乗り出なかったんですか?」
これもまた、信じがたい。甘寧は、担がれているような気がしてきた。
「ああ、おかしいんだよそれが。あの馬鹿、そういうことしたら子供が出来るってよく判ってなくてな」
「・・・・・」
それなら、判るか。
「で、あいつが気がついて名乗り出てきたのが、江夏戦の後だ。けど…、悪阻も酷かったし出血もあったしで、その子の方を動かせる状態じゃなくてな。とにかく身二つになるまでってことで預かってたんだが…、その子、早産の挙げ句に、この秋、死んぢまって…」
「あ…」
この時代。出産は、女性にとって、かなりの危険を伴うものであった。
「もともと、躰の弱い娘だったがな…」
「それで、…今も?」
「うん。ちょうど、夏に生まれたうちの末っ子が死んでな」
ふっと呂範が目を翳らせた。
「うちのがあの子の生まれ変わりだって喜んで…。取り上げるのもしのびなかったから、俺がな、頼んだのよ。このままうちで育てちゃいけねえかって」
「そう、だったんですか…」
「ま、あいつもずっと前線で…、女房貰うどころじゃないみたいだし、お袋さんも病気がちだし…。チビのためにも、その方がよかろうと」
月足らずで、育つかどうかも危ぶまれた赤子だった。
呂範の妻が死んだ子の分までと懸命に世話をして、まあ、どうにか育つ目処も立ったが…。
「そら…、しばらくは子供の傍離れねえでしょうな」
「ああ」
つまり、今日は。呂蒙は、呂範ではなく子供に会いに来ていると、そういうわけである。
「言やあいいのに。ほんと、変わってんな、あいつ…」
ぶつぶつと甘寧が呟き、呂範がくっと喉で笑った。
「だろ。初めて会った時からああだ。全然変わらん」
「ああ、…ここ来た時から、よくしてもらったって…」
呂蒙がたしか、そう言っていた。
「おう。前の殿が、側仕えにするんだって、いきなり連れてきてな。まだ字もなくて…子明ってのは前の殿がつけたんだ」
「そうなんすか?」
「そうそう。学問嫌いな人だったから、あんな簡単なのになっちまってよ。もうちと華のある字にしてやればいいのに」
…そういう問題か?まあ、この人らしいが…
「この人らしい」華やかな衣装を、甘寧が胡散臭げに見る。
「そうだ、そん時もな」
上機嫌の呂範は、しかし、その目に気づいたふうもない。
「俺に言ったもんよ。側仕えってどんなことすんのか知らねえから、お前教えといてくれって」
「そら・・・・・」
笑っていいのか呆れていいのか、甘寧は戸惑った。
前の殿、…孫策という男は、よほど型破りな人間であったらしい。
「そ。あいつが上官を…、てお前、あの一件は聞いてるか?上官を殺したという…」
「あ、…まあ」
「…子明の話じゃわけがわからなかったってとこか?」
「ああ…、ええ」
「だろうなあ」
要するにと、呂範が説明した。
呂蒙の義兄の軍が、山越討伐に出た時。まだ子供の呂蒙が、敵の副将を討ち取るという大手柄を立てた。
「義兄を庇って短刀ごと相手の脇腹に体当たりしたらしいんだよな。でな」
普通は宴会の場に刃物は持ち込ませないのだが、初めての大手柄でもあるし、その短刀は祖父の形見とかで呂蒙が大事にしているものだったし、小柄な彼にも扱える程度の短い刀身しかなかったから、「この刀でよく敵を討ち取った」という意味で、場に飾ってやっていたのだが。
「酔っぱらったアホがなあ、『こんなのでよく敵討てたな、これじゃヒゲ剃るくらいの役にしか立たねえだろ?』て、その刀掴んでてめえのヒゲを剃りにかかったんだわ」
…何となく、事情が判った。
「子明にしたら大事にしてる短刀だからな、『じーちゃんのかたなにさわんなー!』て飛びついたらしいんだけどよ、ほれ、手柄立てたってんでみんなに飲まされてたから、足もつれて…」
「こう、どしーんと、相手に…」
「そうそう。それでそいつ、手が滑って、てめえの首の血脈切っちまってなあ」
「・・・・・。」
ヒゲを剃っている最中に体当たりを喰らったら…、そら、首の血脈くらい切れても不思議はないだろうが。
「今そんなアホなとか思っただろう。そん時俺らも思ったよ」
にやりと、呂範が笑う。
「まあ、事故みたいなもんだし…、そんなアホなことで若いの一人殺すってえのも何だしな。何より、義兄や、その場にいた連中がな。兵ってのは荒くれが揃ってるもんだが…、そいつらが、蒙は悪くない、代わりに俺の首を刎ねろって押しかけてきてよ」
刀置かせたのは俺だから、俺があいつを止めなかったから、俺が蒙にいっぱい飲ませたから、俺が蒙が立った時に止めてりゃあ、等、等、等。
「そこまで皆に慕われる子なら、きっといい将になるって、前の殿がな…」
確かに良い将の条件のひとつは、兵の心を獲るということである。
「で…、側仕えですか」
「おう」
頷いて呂範が盃を空ける。
「実際、そうなったよ。素直だし、飲み込みも早いし、何でも一生懸命やるから、上にも下にも慕われる。武芸の腕もなかなかのもんだし…、勘がいいからな、何より」
「勘」
「戦場での勘よ。戦局を勘で掴むってえかな…。」
「あー」
甘寧が、こくこくと頷いた。
「そういや、いきなりでしたね。ほれ、あの、夏の…江夏攻め。俺らほれ、黄祖の護衛みたいなカッコになってたっしょ…、そこにまっすぐ突っ込んで来やがって…」
「ああ」
呂範が、楽しそうに笑った。
「水軍都督ほっぽってどこ行くんだと思ったら…、大将がそっちにいたってヤツだな」
夏の江夏戦で、黄祖はこちらを混乱させるため、将帥旗を揚げた水軍旗艦ではなく、別の船に乗っていた。
「あとで聞いたら『そっちになんかいる気がした』とか言ってたな…」
「勘だったんですかい」
甘寧が今度は苦笑する。
「まさかあんなすぐ気づかれると思わないから、こっちはもう大わらわでしたよ。あの、赤いのに応戦するんで精一杯で、他に廻るなんてとてもとても」
「お前も大したもんだよ。子明に突っ込まれて崩れない陣なんて、初めて見たぜ」
甘寧の盃を満たしながら、呂範がどこか得意げに言った。
「確かに凄え腕ですよね。あん時あいつ、俺の矢、避けやがって…。俺の矢に狙われて生きてるヤツなんて、あいつくらいのもんですよ」
「そうだろうそうだろう。あいつ、はしっこいからな」
剣じゃもう俺も敵わん。振り回されてあっさり一本取られる。
満足げに笑う呂範は本当に嬉しそうで。
…弟みたいに可愛がってくれてるって子明言ってたけど…、ほんとなんだな…
甘寧の顔にも、笑みが浮かんだ。
…ほんと、可愛がられてんだ。あいつ。
うん。…なんか、判る。
まだ短いつきあいだが…、県長の仕事でも、ほんっと一生懸命やってるもんな。
でまた、思い遣りがあるっつーか、…人のことばっか夢中になって考えるようなヤツだからよ…。
俺の仕官が決まった時だって…、自分のことみてえに喜んでくれたし。
それに。
あの目だ。
あの目があんまり澄んできれいだから。
なんか、これが汚れねえように護ってやらなきゃとか、なんかそんな感じになっちまって・・・・・
ぱたぱた。軽い足音。
「楽しそうですね!何の話ですか?」
その可愛がられている「あいつ」が、勢いよく飛び込んできた。
「おう!お前の悪口だ」
「え?」
ただでさえおおきな瞳をきょとんと瞠ったところは、やはり、一児の父には見えない。
「覇、どうだ?おっきくなってたろ?」
「はい!子衡どののおかげです!抱っこしてやったら笑ってくれて、なんかもう俺、照れちゃって!」
そんな話をするときも、澄んだ瞳は、澄んだままで…
どうして、こいつは。
これだけいろんなものを背負っていながら、こんなに澄んだ瞳で、人を見ることができるのか。
いろいろ…あったんだろうに。
陸家に行った時に聞いた。
あいつが江の南に来たのは、酷い庄屋に故郷を追われたからで。
…自分で、言ってたもんな。あそこの連中に助けられなかったら、餓死してたに違いねえって。
こっち来てからもそんな、年端もゆかねえのに軍に入って。
子まで産ませた恋人には、あっさり死なれて。
なんでだ?
普通ならそんな目に遭やあ、ねじ曲がっちまったって仕方ねえところだ。
なんでお前そんなあかるい目して、あかるい顔して笑えるんだ?
ちいとはてめえの身の上嘆いたっていいだろうに、…人の心配ばっかしやがって…
「興覇?」
不思議そうにじっと見返されて、慌てて甘寧は目を逸らした。
「なんだよ人の顔じろじろ…。子衡殿興覇に何言ったんですかー!」
「ん?お前の悪口だと言ったろう」
くすくす笑いながら、呂範が言った。
「えー」
赤くなった顔が、ぷうっと膨れた。それが可笑しいと、また、呂範が笑う。
「前の殿がこいつのことな、顧兎って言ってたんだ」
「顧兎?」
「あー!そうそう!」
顔をさらに赤くして、呂蒙が言った。
「ほら、月にいるだろ、兎!」
「ああ・・・・・」
月には確かに兎に見えなくもない模様がついている。
…そっか。そういや、この、おっきい目・・・・・
「あれが俺だって言うんだよ!ひどいだろ!」
呂蒙は本気で嫌がっているようだが。
「いいじゃねえか。かわいくて。ねえ?」
…ほんとそうですよねと、目で言えば。呂範の唇が「だろ」と返す。
「それが嫌なんだってー!俺だってなあ、一応武将なんだしー」
「兎みてえにすばしっこいじゃねえか。俺の矢避けた奴なんてお前くらい…」
「そら…そらそうかもしれないけどさあ、もうちょっと強い奴の方が…」
…けどよ。子明。
お前ってどっか…、何かこう、そう・・・・・
この世のものではないような。
背筋が急にぞくりとしたのは、冷え込む夜の冷たさか。
「しかしそんなちびっこくて強いモンって…、ああ、マムシ…」
「子衡どのっ!それもっと嫌ですっ!!」
目の前でむくれている小柄な男が、一瞬、月よりも遠く思えて。
…馬鹿ぬかしてんじゃねえ甘興覇!妓楼の入り口で人に踏まれるような間抜けが、天人かなんかじゃねえかなんて…
自分で自分を叱りつけ、甘寧が、ぐいと盃を呷る・・・・・
中華の南、江南の地で。
時代はゆっくりと、動きだそうとしていた。
※短編「野菊の如き君なりき」とは、呂覇が母親の胎内に宿った時期が微妙に違っております。(こちらの方が半年ほど遡る)
こちらの世界ではこの設定ということでお願いいたします。