Act.4〜A.D.203 柴桑


「周家に?」
 家人の報告を聞いた陸遜は、考え深げに眉を寄せた。
 今日、陸家の邸を訪れた呂蒙と甘寧を、陸遜は密かに尾行させていたのである。
「…やはり、こちらを探りに来られた・・・・・?」
「それはありませんでしょう」
 呟きを打ち消すように声を高めたのは、あの、文嘉と呼ばれた老人。
「あのように澄んだ目をした方が…、そんな、汚い腹のさぐり合いなどなさるとは思えませぬ」
「しかし呂子明殿といえば、周瑜の腹心と目されるお方…」
「伯言さま!」
 老人の声が鋭くなり、陸遜はふっと苦笑した。
「…嫌だな。こんな…、あんな無邪気な方でも疑わねばならぬというのは…」
 老人の顔が、苦渋に歪んだ。
「…ですから孫家になど膝を折られずともと申し上げましたのに!」
「そうはいかぬ。曹操が官渡で袁紹を破ったからには…」
 陸遜の目にも苦しげな色がある。
「…やはり、来ますか、彼は…」
「来る。彼が欲しいのは、天下だ。北が落ち着けば、奴は、必ず来る」
 優雅な白い手が、きつく握りしめられた。
「この揚州内に対立があれば奴はそれにつけ込むに違いない。曹操の代理で揚州人同士殺し合うなど…、そんなことは絶対にさせるわけにはゆかぬ」
 我らは、陸家。この揚州を護る者。
 ゆえにこそ、我らは選んだ。前の総帥を含む多くの族人を殺された恨みを捨て、孫家と手を携えてゆくことを。
 その為に、親から貰った名を変えることすら、厭わず・・・・・
「周瑜とてそれくらい、判らぬ男ではなかろうに。…やはり、…そうなのだろうか」
「廬江周家はもともと…、揚州の家とは申せませぬし…、やはり…」
 呻くように言った陸遜に、老人も暗い声で応じた。
「うむ・・・・・」



 やはり。
 彼の…周家の、目当ては。





 孫権の元に伺候すると、そこには周瑜が待ち構えていた。
 いや、周瑜だけではない。陸遜と…、他にも何人か、甘寧の知らぬ顔もある。
 漂う雰囲気は、どこか険しく。
 昨日のことを思い出し、甘寧が凶悪な顔になった。
 …まさか、興覇を雇うなんて駄目って言い出すんじゃ…
 呂蒙のおおきな瞳にも、懸念の雲がふらりと浮かぶ。
 が。案に相違して、その日の周瑜は、上機嫌であった。
「この者ですよ。今お話申し上げましたのは」
 優雅な顔にきれいに笑みを浮かべて。
「彼は、益州の出身で」
 昨日の謀叛の話をまた持ち出すのではなかろうか。甘寧の顔の凶悪さが増す。
 だが。周瑜は、違うことを言った。
「我が軍が益州に侵攻する暁には、見事先鋒を勤めてくれましょう。なあ、そうだな、興覇」
 …益州に、侵攻?
 そんな話は昨日はひとことも出なかった。甘寧がちらと眉を寄せる。
 その足を、呂蒙がそっと蹴飛ばした。
 何だか知らないが、周瑜が、甘寧は軍に必要な人材だと言ってくれているのだ。嘘でもいいからそうだと言えと。
 …そう言われても…、何て言やいいのか判んねえよ!
 瞬間走らせた視線で言うと、呂蒙がぐっと眉を寄せて見せた。判らないならとりあえず頭下げとけと、おおきな瞳が言っている。
「・・・・・。」
 ともかくも甘寧は従った。満足げに、周瑜が頷く。
「殿。兄上のお志を継ぎ、荊・益二州を手始めに孫呉の天下を実現するには、この者、欠くべからざる人材かと…」
 …そう、なのか?こいつ…天下を取りたいと思ってんのか?
「ほう」
 伺うように見上げると、蒼いとも見える瞳が、じっとこちらを覗き込んでいた。
 孫権。
 これから己が主君と仰ごうという男。
 しかしその表情は、どこか、険しい。
「この…孫仲謀の天下を、望んで…くれるのか?」

 何故だろう。
 その言葉が、淀みがちだったからだろうか。
 それとも、その蒼い瞳の奥に何か、苛立ちのようなものが見えたからだろうか。
 あるいは、初めから場が帯びていたぴりぴりしたものが、皮膚をちりちりさせるほどに高まったからだろうか。
 
 とりあえず頭を下げるべきだったのかもしれないが、甘寧はそうはしなかった。
 何だかよく判らない時は、いっそもう正直に出た方がいい。変に我慢して誤解されたら、その方がよほど厄介だ。
「もう、賊は、やりたくねえんだ」
 呂蒙がおろおろするのが判ったが、今は構ってはいられない。蒼い瞳を真っ直ぐに見て、甘寧は、きっぱり言い切った。
「俺らに真っ当な暮らしをさせてくれるんなら、あんたの欲しいものは、何でも獲ってきてやる」
 誰かがほっと息をつくのが判った。
「そうか」
 ぱあっと孫権が笑顔になった。
 さっきの苛立ったような色は、もう、ない。だが。
「ならば手始めに黄祖の首が所望だ」
 僅かに窺うような色。旧主の首を持って来るまでは、信じ切れぬということか。
 …度量が狭いのか、…こいつ?だがまあ…仕方ないか…
「おうよ」
 すっぱりと、甘寧が答えた。
「よろしく頼むぜ…、殿」
「うん」
 孫権がまた笑う。
「とりあえず、別部司馬でいいか?」
 ・・・・・へ?
「子明」
「はいっ!」
「しばらくお前の下に預けておくから。要りそうなものとか揃えてやってくれ。うちのやり方や何かも、お前が教えろ」
「はいっ!」
 呂蒙が満面の笑みで礼を取った。
「よろしくな、興覇」
 暖かい声で、孫権が言う。
「・・・・・。」
 今度は思い切り蹴飛ばされ。
 甘寧は慌てて膝を折り、主君に対する礼を取った・・・・・

 別部、司馬あ?
 黄祖の下ではずっと食客扱いだったのに。それって…、正式に召し抱えられたってことだよな?
 しかも今、…字で呼ばれたよな。こいつ、主君なのに。
 …度量が狭いってわけでも、ないのか、こいつ・・・・・?

「良かったな、興覇!」
「あ、…ああ…」

 何だか急には信じられなくて。
 その場にいた連中に引き合わされ、挨拶を交わしながらも、戸惑った気分は抜けなくて。
 だが。
 浮き立ったような気分は、室を出しなに、急に冷えた。
 睨むようにこちらを見た周瑜の瞳が、昨日に増して、冷たかったから。
 そうして。もうひとつ。
 …そういや、陸伯言て奴…、一度も俺と目を合わせなかったよな。
 扉が閉まる直前に、視線を走らせたのだが。彼はどこか奇妙な顔で、周瑜の方をじっと見ていて・・・・・

 何か、引っかかる。

 何が・・・・・

「な?殿、いいひとだろ?」
 無邪気に見上げてくるおおきな瞳が、甘寧の物思いを遮った。
「…あ?ああ」
 いったいここには何があるんだ。
 聞いてみようかと一瞬思ったが、すぐに甘寧は思い直した。
 …こんなガキみたいな奴に、聞くだけ、ムダだよな。
「まさか…正式に召し抱えてくれるとは思わなかった」
「殿はそういう人なんだよ。これで手下の人たちも呉の兵だからな!」
 きちんきちんと俸給も出るし、手柄を立てれば褒美も貰えると。呂蒙がわがことのように嬉しそうに言った。
「お嫁さん貰ったり家族呼んだりも出来るようになるよ!ほんと、よかったな、興覇」
「・・・・・ああ」
 一番望んでいたことが叶えられた。それは…喜ばしいことなのだが。
「実感湧かないか?」
「・・・・・うん」
 そういうことにしておこうと、甘寧は思った。
 呂蒙がこんなに素直に喜んでいるのだし、確かに、報告すれば手下たちも大喜びするだろうし。
 何かの道具に使われたような妙な気がするというのは、自分だけが腹に収めていればいいことだ。

 そうだ。
 これでみんな、浮草暮らしから足を洗って。
 人がましい暮らしが出来るようになるのだから・・・・・





 空に、冬の三日月。
 鮮やかに澄んだその光が、あの、おおきな瞳を思わせて。
 若き陸家の総帥は、口の端に淡い笑みを浮かべた。
 子明殿。
 作法に外れた応対をする興覇殿をはらはらしながら見守っていた彼。興覇殿の仕官が容れられた時は、我がことのように喜んで。
 礼を忘れている興覇殿を思い切り蹴飛ばしたのは、自分の位置からもはっきり見えた。
 文嘉の言う通り。
 あれほど澄んだ目をしたかたが、周家の回し者などである筈はなかった。
 今日も今日とて、あの場で行われた微妙な駆け引きにも、友人の仕官が成るかどうかに頭を占領されていたあのかたは、全く気づいていなかった。
 …いい、かただ。
 あそこまで純真無垢なかたでは、…こちらの内情を探る道具にも使えまい。
 そして、興覇殿も・・・・・

 周瑜は言った。この男は孫氏に天下を獲らせる為に来た男、荊・益二州を手始めにという自分の戦略に沿って動く者だと。
 殿はお尋ねになった。お前は周瑜の戦略を是とするのかと。
 …いい答えだった。「俺らに真っ当な暮らしをさせてくれるんなら、あんたの欲しいものは、何でも獲ってきてやる」というのは。
 それはそうだろう。好きこのんで賊になる者など、そうはいない。
 この乱世、賊になるといえば、まず、生計の道を戦乱に奪われたか、戦乱から逃れるため故郷を捨てたか、どちらかである場合が多い。
 賊にでもならねば餓死するしかなかった…そういう者が山のようにいるのだ。平穏の世の賊とは、話が違う。
 周瑜の言葉に共鳴してこちらに来たわけではないと、彼は全身ではっきり告げていた。
 黄祖は彼を食客としてしか扱わなかったという。彼はともかく、彼に従っている者たちには、これまで正規の身分がなかったのだ。
 それをどうにかしてやろうと…、真っ当な暮らしをさせてやろうと、彼は。
 優しいかただ。
 ならばと殿は仰有った。正式に呉の臣として召し抱えると。
 …礼を忘れるほど茫然としておられたあのかた。…それほど嬉しい驚きだったのだ。見ていれば、よく判る。
 もうひとつ、殿は仰有った。
 天下は要らぬ。獲ってくるのは黄祖の…親の仇の首でよいと。
 彼に通じたかどうかは判らぬが、周瑜に釘を刺したことにはなろう・・・・・

 そう、私たち…、殿と私は懸念していた。
 周瑜が自分と意見を同じくする外部の勢力を引き入れることで、軍における自分の発言力を更に高めようと、甘興覇殿を招いたのではないかと。
 周瑜はなぜか私たちにそう思わせたがっていたようだが、…それは興覇殿の言葉で否定された。

 …よかった。あの懸念が杞憂で、本当によかった。
 あんないいかたたちまで疑わずにすむのが、私は…嬉しい。

 天下など、…要らぬのだ。

 私たちが欲しいのは、揚州人のための揚州人の国だ。
 漢朝400年を通じて、北の連中がどれだけ私たちを苦しめてきたかを考えてみればよい。
 言葉に訛りがあると馬鹿にし、習俗が違うと嘲り、…私たちが一つに纏まるのを怖れ、豪族同士争うように仕向け…。
 この江南が、漢の劉邦と最後まで天下を争った項羽を生んだ土地だからだろう。
 北の支配に耐えられなかった者たちは叛乱して山に籠もり、「山越の者」とまるで異民族のように呼ばれている。
 そうして北の支配を受け容れた者たちと、醜い対立を続けている。
 かの項羽在りし日の江南は、こんなふうではなかった筈なのに…!
 北の連中など、もう、御免だ。
 私たちは私たちの国を作る。私たちらしい国を作る。
 そのために私たちは手を結んだ。 

 しかし、周瑜は。

 陸遜の眉が険しくなった。
 自分が孫家に膝を折った時、陸家は信用できぬとしつこく言い募ったのは、周瑜だ。
 有力者であり軍を握っている彼の意見を孫権も無視しきれなかったのだろう。彼の出した条件を、そのままこちらに伝えて来た。
 膝を折るというのなら、「議」の名を「遜」と改めよと。
 族人たちは皆反対した。そうまでして孫家に仕えることはないと。
 だが。…揚州のため、私は折れた。
 くだらぬ意地や誇りと揚州の平穏を引き換えにすることができようか、…いや、出来ない。
 それに。
 周瑜がああまで我らを警戒し、あわよくば追い落とそうとし続けているのは・・・・・

 …彼は。孫家を。
 




 うつろに暗い切れ長の瞳が、じっと夜の闇を見据えている。
 …忌々しい、…あの男。子明も子明だ。変なヤツを連れて来やがって…
 周瑜のいつもは端正な顔が、今は醜く歪んでいた。
 闇に浮かぶ、あの、ふてぶてしい顔。甘寧の顔だ。
 …やはり、手下にいたという陸家の男が、あいつを説きつけて、こちらに…?
 疑いは、暗く底知れぬ渦を巻く。
 
 陸家から彼が俺のところに来たと聞いて、…これは陸家が俺を妨害するために寄越した男だなと直感した。
 軍に陸家の息のかかった者がいるんじゃ…、俺の仕事がやりづらくなるからな。
 人のいい子明を道具に使うとは、何と卑怯な奴らだろう。子明はああいう純な子だ。汚い陰謀など、判るわけがないのだから。
 難癖をつけて仕官を断ろうかとも思ったが、…いっそ逆に利用してやれと思い直した。
 俺が彼をこちら側に取り込んだように陸家に思わせてしまえばよいではないか。
 仕官できるかどうかの瀬戸際だ。彼とて、俺の言葉に異を唱える度胸はあるまい。
 さも彼が俺の戦略に共鳴しているというように、殿に紹介すればよい。
 そうすれば、陸遜も彼を信用しきれなくなるだろうから、軍の中で余計な動きをされずに済む。
 うまくいけば陸家の中に罅を入れることが出来るかもしれない。
 だから俺は言ったのだ。我が軍が益州に侵攻する暁には見事先鋒を勤めてくれましょう、と。
 親しげに字まで呼んでみせて。伯符の遺志まで持ち出して。
 絶対同意するだろうと思ったのに…、あの野郎。見事に外しやがった。
 何が「真っ当な暮らしをさせてくれるんなら」だ。俺の思い通りには動かぬと、それとなく殿に言いやがって。
 …ったく・・・・・

 白く長い指が、額を覆う。伏せられた睫毛が震えていた。

 …あいつ。なんか、伯符に、似てんな・・・・・

 別の面影が闇の底に揺れて、周瑜は苛々と首を振った。
 いつも陽気だった、誰をも引きつけた、戦の天才だった、けれど馬鹿だった、あの―――
 ふう。
 闇を揺らせた、重い溜息。
 …ならば、…伯符と同じようにしてやるまでだ。
 窓を開けた。空に、冬の三日月。
 
    ・・・・・天下を獲ったら、仲謀にやる。俺は公瑾と西へ行くんだ・・・・・
 
 お前が馬鹿だったんだぞ、伯符!
 お前が…お前が変なことを思いつかなかったら、俺たちはあのまま一緒にやっていけたんだ。
 お前が帝を江南に攫って来るなんて言い出さなかったら、そうして本当に軍を動かそうとしたりしなかったら。
 こっちの連中はあのままお前を支持した筈なんだ!本家だって俺のしたいようにさせてくれた筈なんだ!
 お前が足元ひっくり返すような真似をしなかったら、俺たちは、きっと・・・・・

「伯符・・・・・」

 三日月の淡く冷たい光に、零れたその名が白く揺れた。





 同じ三日月の光の下。甘寧の出した飛脚が走る。

「孫家が正式に召し抱えてくれた。皆、今日からは呉軍の兵士だ。もう俺たちは賊じゃねえんだぜ!」





 澄んで冷たい三日月だけが、その夜の全てを見つめていた。