Act.3〜A.D.203 柴桑


 ぱたぱたぱた。
「おじさんっ!」
 いきなり声をかけられた老人が、驚いた表情で振り返り、…二度、三度、瞬きをして、そこでようやく笑顔になった。
「あんた…、あのときの…!」
 蘇る、遠い記憶。
 暑い夏と、白い道と、…膝に抱き上げた子供の日なたの匂いと…
 なんと言った、名は。そう…、蒙。
 しかし、にこにこと向けられているあの日と同じあかるい笑顔は、小柄ながらりっぱに育った青年の躰の上に乗っていて。
 まさかに今更阿蒙とも呼べぬ。
「…立派になって。見違えた。よう、無事で…」
「うんっ」
 嬉しそうに呂蒙が笑った。
「今、どうしている」
「あ、俺、孫家の武将なんだよ!ちゃんとね、字もあるんだ」
 得意そうに呂子明と名乗った呂蒙を、老いた男はぽかんと見つめた。
「呂、子明…?それは…」
「あっ、おじさん知ってる?そうなんだよ!俺ちょっと有名になってきた?」
「…あ、…ああ」
「やった」
 無邪気に手を打ってはしゃぐさまからは、とてもそうとは思えないけれど。
 この柴桑で、知らぬ者はない。孫権麾下の最精鋭、赤で装備を揃えた部隊。勇猛果敢な指揮官の掲げる旗は、呂。
 まさか、…あの日の少年が、彼だとは…
「…平北…都尉殿、で・・・・・」
 そうとなれば平民とは位が違う。礼をとらねばと思ったが。
「やだなあおじさんそんな…、おじさん俺の命の恩人じゃない!おじさんいなかったら俺とかあちゃんあそこで野たれ死んでたもん!そんな堅苦しいことしないでよ」
 按手しかけた老人の肘は、あたたかい手にあっさりと抑えられた。
「それよりおじさん、ここの人だったの?」
 おおきな瞳が見上げた先。冬空に聳える大きな門。
「え…、ああ…」

 陸家の、別邸の。



「俺さ、ここの…ええと名前何だっけ、俺頭悪いから…」
 困ったように首を傾げて、呂蒙が言った。
「ほら、この春うちの令史になった…」
「…伯言様?」
「あ、うん。そう…、その人に、用事が…、ああ」
 振り向いて手を上げた先。いかにもこわもてのしそうな男と、半ば引きずられるようにしている中年の男…
「ほら、あいつ。あいつ、ここの族人だって言うから・・・・・」
 目をやった老人が、あっと息を飲んだ時。
「子方?」
 声は、後ろから響いた。
「子方ではないか!お前、…生きて…」
「伯言様!」
 先程の老人が制止しようとしたが、門から飛び出してきた美丈夫の目には、他の人間など入らぬふうで。
 ひ、というような声を立てて平伏した男に駆け寄ると、地に置かれた手を掴み取った。
「…よく…、よく、まあ・・・・・」
「阿…議、さま…!勿体ない…」
 子方と呼ばれた男が、声を震わせる。
「ご心配を…、…申し訳なく…」
「何を言うのだ!私は、・・・・・・」
 声を震わせた美丈夫の肩に老いた男が手をかける。
「伯言様…、呂平北都尉殿が…」
 はっと顔を上げた美丈夫…陸伯言…が、振り向いて、呂蒙を認め。色白の頬を李の色に染めた。
 慌てたように立ち上がり、作法通り、上官に対する礼をとる。
「あ…、これは…、失礼を申し上げました、子明殿」
「え…、い、いや、いいけど…」
 この手の作法は苦手であるらしい。呂蒙が視線を泳がせる。
「こちらさまが子方をお連れくださったのですよ」
 美丈夫の顔が輝く。
「それは…」
「あーっ!そうじゃなくて」
 ぶんぶん。
 思い切り振り回した手が、感謝の言葉を制した。
「礼なら、興覇に言ってよ!興覇がその…」
「俺がそいつを拾ったんだ、伯言さんとやら」
 いつの間にか近づいていたあの強面の男が、挑むような目をして言い放った。
「俺は甘寧、…甘興覇。これまで俺の手下にしてたんだが」
 ぐいと子方に顎をしゃくって。
「このたび孫家の世話んなろうってえと、自分は総帥に話通さなきゃならねえって言う。それで子明に案内させてきた」
「興覇」
 喧嘩でも売っているような物言いに、呂蒙が慌てて袖を引く。
「こいつ、このまま俺んとこ置いてて、文句ねえよな?」
「文句など」
 全く動じた様子もなく、美丈夫は豪華に微笑んだ。
「拾ったとは…、我が族人を保護してくださったのですね。感謝いたします」
 丁寧に頭を下げられて、甘寧がばつの悪い顔になった。それでも礼だけはどうにか、形通りに返す。
「…おいあんた…、俺が誰だか知ってて、礼を言ってんのか?俺は…」
「存じております。錦帆賊の…。ですが…、これからは孫家にお仕えになるのですから、私たちは同僚でしょう」
 済んだことなどどうでもよいと。
 海よりも深い瞳が、じっと、鷹よりも鋭い瞳を見返す。
「子方をお助けくださって、本当にありがとうございました。私は陸家の当主、陸遜。字を伯言と申します」
 えっ、と。
 驚いたように子方が目を上げた。
「ああ、諱を変えたのだよ。孫家に仕える時に…。今は遜という」
 軽く、流して。
「文嘉殿、皆に報せを。子方が戻ったと」
 はっと、礼をして。あの老いた男が、飛ぶように邸に駆け込んでゆく。
「さあ、どうぞ、中へ。大したおもてなしも出来ませんが…」

 …なんとなく従ってしまったのは、何故だったのだろう。





「肩凝った」
 門を出るなり。
 ぐるぐる肩を廻した甘寧に、呂蒙がぷっと吹き出した。
「そっか?楽しかったじゃん、みんなすっごく喜んでくれたし」
 陸家の総帥は、終始礼儀正しく愛想が良かった。
 呂蒙が、自分を呉に連れてきてくれたのはあの文嘉という老人だったと披露したら、それはご縁があったのですねと、あの豪華な笑みを浮かべて。
「俺、あんとき、貧乏丸出しっていうか、たいがいすごいカッコしてたんだけど、そういうこと一言も言わなかったし、お前のことだって…」
 確かに、賊あがりだの何だのとは、誰にもひとことも言われなかったし。
 二人とも作法関係はかなりに怪しいのだが、馬鹿にした顔もされなかったし。
「俺歓迎されんの慣れてねえのよ。しかもあんな礼儀正しい奴に」
「…だから最初喧嘩売ったのか?俺どうしようと思った」
「売ってねえよ。偉いさんだから絶対高飛車に出るだろうと思って、気合い入れただけだ」
「入れすぎ」
 照れたように、甘寧が笑う。
「子方ってあれだったんだね、昔伯言の世話係だったんだね」
「お?やっと名前覚えたか?伯言て」
「…また人馬鹿にして」
 ぶーと膨れた顔は年相応には見えない。陸遜より呂蒙の方が年上らしいが、どう見ても、年下に見える。
 …背負ってるもんの、違いかな…
 あの年齢で江東一の大豪族の当主なのだ。伊達や酔狂で出来るものでもあるまい。
 ちらと振り返った視線の先で、大きな門は角に隠れた。
「あれはさあ、…最初陸議って人が来るって聞いてたのに、引き合わされてみたら陸遜だったから…。そのへんでごちゃごちゃになったんだって」
「ああ、…孫家に仕える時名前変えたって言ってたっけ」
 ・・・・・遜、と。
 変えるにしても他になかったのだろうか。「遜」といえば謙遜の「遜」だし…、字の、形が。何となく孫家の下に敷かれているように見える。
 …まあ、あれだけ名の通った豪族だ。その気になりゃあ孫家とタメ張れそうな感じだし…、先代は孫家の先代にやられたって噂だし。そのくらいしなきゃあ信用されなかったのかもな。けど…
 そこまでして仕えることもなさそうなものだがと、甘寧はちらりと首を捻った。
 …都で仕えてる身内もいるみてえなんだし、孫家が嫌ならあっちイ行っても…
 先程出された「都の族人が送ってきた」珍しい菓子。あれは庶民の口に入るようなものではない。そういうものが食べられるということは、「都の族人」とやらはそれなり身分のある…宮廷に仕えてるか何かに違いない。だったら…
 まあ。他人の家の事情など、心配しても仕方ない。
 それよりもだ。
「なー」
「ん?」
「その…、大将とやらのとこ行くの、明日にしねえ?」
「明日はもう殿にお会いしたいって届けちゃったじゃないか。大将だって待ってるよ?子衡どのが今日俺たち行くからってちゃんと…」
「…もう肩凝ったんだって」
「公瑾の大将はそんな、堅苦しい人じゃないって。あんな行儀よくないし」
 呂蒙が、おかしそうに言った。
「けどお前、本家の何やらは宮廷の偉いさんだったんだろ?」
「…そうだけど。大将はそんなんじゃないって。前の殿お作法とか思いっきり苦手だったもん」
 口うるさい人なら友達になんかなれないよと、あかるいいろの声が笑う。
「そうだったのか?」
 前の殿。周瑜とは親友だったという、孫策。
「うん。ちっともじっとしてない人でね。天下取ったら仲謀にやる、俺は公瑾と西へ行くが口癖みたいで…」
「なんだそりゃ」
 甘寧が目をぱちぱちさせた。
「公瑾の大将とね、見たことない国やらモノやら見に行くんだって、いつも言ってたんだ。天下取るのも…、なんか、遊びの一種だったんじゃないかな、あのひとには」
「…そらお前、…天下に失礼ってもんだろが…」
 遊びで取られたのでは、天下だって堪るまい。
「よくそれでみなついてってたな…」
「んー、興覇は会ったことないからわかんないだろけど…」
 おおきな瞳はなぜか、ふっと、翳った。
「みんな前の殿好きだったんだ。俺よくわかんないけど、殿のためなら死んでもいいって…そう思っちゃうってみんな言ってた」
「…ふうん?」
 魅力的な男だったと…そういう意味だろうか。
「お前は違ったのか?」
「好きは好きだったけど…、俺とか公奕とか、殿をお守りするのが仕事だったから。いつも一人で敵陣突っ込んじゃうんだもん…、そんなのいちいち死んでられないだろ?俺、何人いても足りないじゃん」
 …すごい理屈だと、甘寧は思った。
「あ、ほらもうそこだよ、公瑾どのんち」
 美々しい門を指さして、呂蒙がにこにこ微笑んだ。
「すんごいオトコマエなんだ、公瑾の大将。きっと興覇もびっくりするよ…」



 だが。
 江東の美周郎と呼ばれる美男子の眉間には、警戒するような色をした、分厚い雲がかかっていた。



「あの…、大将?どうか、したんですか?」
 戸惑ったような呂蒙の声も、その雲を払うことができなくて。
 …俺を賊扱いする気か?
 甘寧の眉間にも、深い皺が刻まれた。
「呂子衡どのから話は聞いている。そちらが、甘興覇殿か」
「だったらどうした」
 どこか棘のある口調で問われ、甘寧の声にも不穏なものが滲む。
「陸家とは、何か縁が?」
「は?」
「今日、ここに来る前に寄っただろう。陸家に」
「…どうして知ってんですか?」
 甘寧が何か言う前に、呂蒙がきょとんと目を丸くして言った。
「うちの使用人が見かけたと」
 僅かに甘寧の眉が寄ったが、呂蒙はそれには気づかなかったようで。
「あ、すみません、約束してたんだから先こっち来ればよかったんだけど…、興覇の手下に陸家の出の人がいて。こっち仕えるんなら本家に挨拶しないとって言うから」
「ほお。陸家の者が…」
 切れ長の目が甘寧に走る。
 口調に何か嫌なものを感じて、甘寧の眉はさらに寄った。
「…行き場なくしてんのを俺が拾った。そんだけのことだ。陸家の出だなんて、こっち来て初めて知ったんだ」
「ふむ…」
 周瑜はしかし、相手の表情に気づいたふうもなく。さらりと、別のことを言った。
「甘興覇殿…、ご出身は、益州か?訛りが…」
 ぴくりと、甘寧の頬が震える。
「やはりそうか」
「益州だったらどうしたってんだよ!」
「いや」
 周瑜の唇が、妙な具合に歪む。
「…甘寧という者が、益州で謀叛を起こした挙げ句、どこかに逃げたという話を聞いたことがあって…」
「ちょ、ちょっと、公瑾どの!」
 おろおろと二人を見比べていた呂蒙が、戸惑ったように周瑜を見上げた。
「興覇はそんな奴じゃ…」
 しかし当の甘寧本人は、何のことだか判らぬふうで。
「何言ってんだ?俺あ賊あがりで…、人に仕えたなんざ黄祖が初めてだぜ?俺の賊ばたらきがこっちじゃ謀叛てことになってんのかよ?」
 賊だったのは本当のことだが謀反人にされちゃあ堪らねえ。声を鋭くし、甘寧が迫る。
「だいたいそれいつのことだよ」
「劉君郎(劉焉)が死んだ時だ。漢朝が送り込もうとした益州刺吏と呼応した者が…」
「ちょっと待て!!」
 甘寧が喚いた。
「劉焉が死んだ時って、俺あまだ女も抱いてねえトシだぜ?…あんた俺幾つに見てんだ?」
「・・・・・」
 周瑜が考える顔になる。
「そうですよっ!こいつ俺とそんなトシ変わらないですよ!それ別の人ですよ!同名の別人くらい、いたっておかしくないし…、それじゃ15かそこらで謀叛したことになるじゃないですか!」
 懸命に訴えたのは、呂蒙。
「こいつ謀叛なんかするような奴じゃないです!だいたいこんな喧嘩売ってるみたいな物言いしか出来ない奴、人になんか仕えられるわけ、ないですよっ!」
 周瑜がゆっくりと瞬きをした。
「子明…、こいつを推挙しに来たんじゃなかったのか?」
「え…あっ!!」
 自分が何を口走ったかに思い至り、呂蒙の顔が真っ赤になる。
 周瑜の冷たく整った顔を、何やら苦笑めいたものが過ぎった。
「…そうか。そう言われれば…、15で謀叛は、確かに妙だな」
 15と言えば、下手をすればまだ元服前。謀叛に加わることはあっても、企てることはまずあるまい。
「誤解だったようだ。悪かった」
「そうとも」
 甘寧が憮然として言った。
「ったく…、いくら俺が賊あがりだからって、他人のやったことまでおっかぶせねえで貰いてえ!」
「すまん」
 軽く頭を下げはしたものの。
「まあ…、子明が見込んだのなら、間違いあるまい。戦の腕はこの前見せてもらったしな」
 周瑜の表情はどこか冷たく、…声も月光のように冷ややかで。
「その…手下とやらも含めて、水軍に迎えるよう、私からも殿に申し上げておく。以後、よろしく頼む」

 蹴り飛ばして、出てゆきたかった。
 けれど。
 ここで孫家に引き取って貰えなかったら…、手下たちは。
 あいつらに人がましい暮らしがさせてやりたくて、俺はここに来たのではなかったか。
 そうでなければなにも…、あのまま黄祖のところにいたって、喰ってゆくくらいのことは出来たのだから…

「ああ。よろしくな」

 それでも。
 頭を下げる気にはなれなかった。
 あの、陸家の総帥には、自然に礼が返せたのに・・・・・

 陸家・・・・・

 戸惑った目で二人を見比べている呂蒙を促し、甘寧はそそくさと邸を出る。
 鋭い視線がじっと自分を見送っているのが、背中で、判った。

 何か、引っかかる。

 正体の判らぬ不安めいたものが、甘寧の胸を騒がせた。