Act.2〜A.D.203 柴桑


 年の瀬が迫る柴桑の城市は、華やいだざわめきに満ちていた。
 孫家がこのあたりを本拠として以来、それなりに落ち着いた日々が続いたためだろう、市に並ぶ品物も、種類や数がずいぶんと増えている。
 ちょっと人目を引く顔立ちの男は、急ぎ足で城市を抜け、湊を目指した。
 魯子敬(魯粛)のところの商船が、じき、湊に入って来る筈だ。都で流行っている最新の色柄を、真っ先に見せてもらう約束になっている。
 新しい年は、新しい衣装で迎えたい。仕立てについても、あちらの流行りが聞けるだろう。そうしたらまた、誰もが驚くような衣装を…
 楽しげに歩む男の衣は、確かに、凝ったもので。鶯色は何も珍しい色ではないが、結び紐の朱が、驚くほどの効果を挙げていた。生地には、複雑な地紋が織り出されているらしい。男が歩むその動きにつれて、文様が浮かび上がってはまた消える。
 市の女たちの視線が集まるのを感じ、男は、満足げに微笑んだ。
 が。
 城市を抜け湊が見えたところで、その微笑みは拭い去ったように消えた。綺麗に整えられた眉が、きりきりと吊り上がる。
 …おのれ!誰だ、あんな派手な帆を揚げてやがるのは!
 そんな呟きも知らぬげに、真っ赤な帆は、するすると帆柱を下りていった。どうやら湊に入ってくるらしい。
 …賀公苗の奴か?いや、あいつは、今年は建安を離れられないって言ってた筈だ…
 長江流域を抑える孫家は、水軍に力を入れている。水軍を抱える将たちは、船そのものの装備にも力を入れていた。とりわけ、字(あざな)を公苗という賀斉と、もう一人…、そう、この男の船は、その華麗さで有名で…
 …許せん!この呂子衡より目立つ帆を揚げるなど!!
 この男。呂範…、呂子衡。
 先代から仕えた、孫家の重臣である。





「呂子衡(呂範)どのも公瑾(周瑜)の大将も、俺がこの軍に来た時から、すっごく可愛がってくれてるし」
 屈託のない笑顔で言われても、甘寧の仏頂面は治らない。
 なんといっても黄祖のところでの苦い経験がある。
 水賊あがりの自分がどんな扱いをされたか。その上、この間まで敵軍にいたというおまけがつくのだ。この孫軍で受け入れられるか…、どうしても、不安になる。
 確かに、呂蒙の下はひどく居心地が良かったし、彼とは妙に気が合って、もう、親友といってもいい仲になっていたが…、それでも、他の連中がどうかは判らない。
 特に…
「俺が気になってんのはその何とかさんたちじゃなくて、陸家の総帥たらいう奴なんだって。江東第一の豪族って言うじゃねえか」
 お前だってそいつのことはよく知らねえんだろと言われて、呂蒙も渋々頷いた。
「ん…、ほとんど挨拶したってだけだけど。名前、…何だっけ。何か最初聞いたのと違うなって思って…」
 江東第一の豪族・陸家が向こうから孫家に膝を折ってきたのは、今年の春。呂蒙も、部署が違っているせいもあるが、まだ、親しくなるところまではいっていない。名前も覚えていないのが、その証拠だ。
「けど…、誰にでも愛想よくしてたよ?俺にだって丁寧だったし。水賊がどうなんて言わないんじゃないかなあ?」
 しかし甘寧は首を傾げる。
「俺はいいけど…、忠の奴よ。あ、忠じゃねえ…、子方って字(あざな)があんだっけ」
 忙しく帆を畳んでいる中年の手下を、呂蒙がちらりと振り返った。
 当時の中華の者たちは名を二つ持っているのが常であった。諱と呼ばれる本名と、字と呼ばれるいわば通称である。
 古代においては貴人の本名を呼ぶのは無礼という考え方があり、そこから、実生活で使用する名として別に字をつけるようになったのだ。
 本名を呼んでよいのは、当人の親や主君のような、はっきりと目上の者に限られる。
 まあ、そういうのはちいと学問でもしてみようかという余裕のある連中の話、庶民はそんなもの持ってはいないし、甘寧の字にしたところて、格好よさそうなのを自分で適当につけただけなのだが。
 ともかく、そういう風習のもと、主君は、上下関係を明らかにするためにも、臣下を諱で呼ぶのが普通である。ところがこの孫家ではそうではないらしい。なんと、主君の孫権自らが、臣下を字で呼ぶのだそうで。
 何故だと聞いたのだが、呂蒙は首を傾げて「さあ?」と言うばかり。「殿がそうしたいんだからいいんじゃない?」とたいして気にも留めていないふうだが、荊州の劉家にに仕えていた甘寧には判る。これはかなりに破格のことだ。
 ともかくも、主君自らそうであるがために、東呉の将官たちもまた、お互いを字で呼んでいる。呂蒙も甘寧を「興覇」と呼ぶし、甘寧も呂蒙を「子明」と呼ぶ。部下に対してもそうするのが…相手に字があればだが…、孫家の習わしのようになっていた。
 呂蒙に言わせると「前の殿んときからそうなんだよ。仲間って感じでいいじゃん?」ということで…、まあ、そう言われれば、そうかなあとも思う。
 だから甘寧も、「忠」と諱で言いかけて、「子方」と修正したわけなのだが…
「読み書き出来るから、それなりの家の出なんだろうとは思ってたけどよ、まさか、陸家たあなあ…」
 何でも、8年前の廬江の戦いで、陥ちた城から脱出した時、大怪我をしたのだそうな。今も少々右足を引きずっている。
 死にかけていた彼を助けたのは、彼が使っていた山越族出身の者であった。その状態では呉の本拠まではとても戻れそうになく、しばらくその者の族に身を寄せて様子を見ていたのだが。
 今度はその族が、袁術軍に襲われて。
 またしても辛うじて逃げ延びたところを拾ったのが甘寧だったというわけだ。
 賊といえば流民のなれの果て、社会の底辺に生まれた者が多い。そんな中、読み書きの出来る者といえば貴重で…、だから甘寧も重宝していたのだが。
「孫呉に仕えるんなら総帥に話通さねえわけにはいかねえって言われた時は、マジ、おったまげたぜ」
 そう。それで甘寧は呂蒙に連れられ、この柴桑にやってきたのだ。
 ちょうど新年が近く、将官たちも、主君に年賀の慶びを述べに本拠に集まってくる。上の者に甘寧を引き合わせるにも都合がいい。当然陸家の総帥も来る筈だ。呉郡まではちょっと遠いが、そこで会えばいいからと…
「だいじょぶなんじゃない?事情が事情だしさ…」
 呂蒙がまた、首を傾げる。
「けど…族人が賊やってたなんてお前…、そんな名家の御曹司がどう思うか。もし、許せねえとか孫家に仕えんなとか言いだしたら…」
 現にあいつ自分の姓だけは絶対俺らに教えなかったと、甘寧は心配そうに言った。
「賊にまで落ちたって知れたら家の名を汚すとか何とか思ってたに違いねえよ」
「そう悪く考えるもんじゃないよ」
 あかるい色の声はしかし、励ますように答える。
「今どきのことだもん。荊州が揚州の敵方みたいになってたからさ、それ、心配したんじゃない?揚州の豪族の出だとかいったら、間者と思われるかもしれないじゃん」
「…そら、まあ…、それもあるかもしんねえけど」
「だろ?」
「お前は何でもいいように考えすぎなんだって」
「んなことないよ」
 軽く肩を竦めた呂蒙が、さらに言葉を続けた。
「ま、どしても心配だったら、子布どのに口添え頼んでやるから」
「子布?」
「知らない?」
 おおきな瞳が、意外そうにまたたく。
「東呉の二張って結構有名なんだけど。あ、張昭どのの方な」
「へえ?」
 東呉には二人の大学者がいる。張昭と張紘、合わせて「東呉の二張」だ。
 孫策の時代に配下に加わった彼らだが、孫権の信頼も厚いという。特に、張昭の方は、孫策が遺言で「国の大事は彼に相談しろ」とまで言ったそうな。
 そんな名前がさらりと飛び出したとこに、甘寧が、流石に目を剥いた。
「お前そんなのと知り合いなのかよ!」
 …こいつ、…何者だよ…
「そうだよ。俺の読み書きの先生なんだ。口はめちゃくちゃ悪いけど、ほんとはすっごく優しいんだよ。俺のこともほんと可愛がってくれてて…」
 呂蒙は相変わらず、屈託なく笑っている。
「だから大丈夫だよ!その、陸なんとかって人だって…」
「子明ーっ!!」
 会話を中断させたのは、船着き場から響いてきた凄まじい怒号だった。
 見下ろせば、怒髪天を衝く勢いのしゃれた身なりの男が、顔中を口にして喚いていて…
「お前!いつから私と張り合う気になった!!」
 きょとんと呂蒙が目を瞠る。
「え?子衡どの?」
 身軽に船から飛び降りた、その胸ぐらをぐいと呂範が掴む。
「お前っ!!なんだこの帆は!!私より派手な帆をあげるとは、生意気な!!」
「え…、あっ!」
 呂蒙がしまったという顔になる。
 甘寧がむっと顔を顰めた。
 この船は、自分の船だ。俺の船の方が速いからって、今回出してやったんだ。自慢の船に文句をつけられて、甘興覇ともあろうものが黙ってはいられない。
 急いで呂蒙の後を追う。
「おいあんた!」
 呂範がきっと甘寧を睨んだ。
「俺の船になんか文句あんのかよ!」
「お前!何者だ!」
 興覇、と、止めようとした呂蒙の声は、呂範の怒号にかき消された。
「俺あ甘興覇だ」
 不敵に名乗ると、呂範の眉が険しく寄る。
「甘興覇だと?」
「そうなんです子衡どの!こいつ孫呉に仕えたいって俺んとこ来て…」
 割って入ろうとした呂蒙は、乱暴に押しのけられた。
「甘興覇ってこたあ…錦帆賊の甘寧かっ!」
「それがどうした!」
 …ああ。ここでもやっぱり、賊扱いされるのかよ…
 暗い思念が、甘寧の心を満たした…が。
「会ったら聞こうと思ってたんだ!」
 …は?
 いきなり肩を掴まれて、甘寧が目を丸くした。
「…な、何だよ。放せよ!」
 払いのけようとしたが、その手はびくとも動かない。
 そして、呂範は喚いた・・・・・

「あの帆はどこで染めさせたっ!!」





「だって!しょーがないだろっ!」
 酒肴の並んだ卓の前。顔を真っ赤にして呂蒙が喚いている。
 喚かれているのは、甘寧。
「子衡どのは、男には華がなくてはってのが持論なんだから!軍も同じだって…」
「…確かに…金かかってたよな、あの服」
 憮然として、甘寧が言った。
「そりゃ、変わってるのは変わってるけど…、だけど、いい人なんだから!そんな顔しなくたって…」
「いや…いい人じゃねえって言ってるわけじゃ…」
 午後の出来事を思い出し、甘寧が、ぼりぼりと首筋を掻いた。
 血相変えて「あの帆はどこで染めさせたっ!!」などと、予想もしないことを言いだしたから、つい、「荊州の染物屋だ」と答えてしまったら…、呂範ががっくり肩を落として。
「…荊州か…。敵地では…くそっ、発注することも出来ぬではないか!」
 心底悔しそうに、地面を蹴って。
「戦乱が及ばなかったというのは強いものだな。揚州にはそんなでかい染物屋はないからな…」
 確かに、染色だの何だのといったものは、平和な土地でなければ栄えまい。揚州は、豪族や小さな勢力が、ずっと争いを繰り広げていて…、人々も、生きることで精一杯の有様だった。染物屋などが流行る状態ではない。
「くそ…!早く揚州を平定せねば…」
 そんな動機はこれまで聞いたことがない。
 そんなに欲しけりゃ店に口をきいてやる、手下をやればどうってこたあねえと言ってやったら、「本当か!」と大喜びで。横から、呂蒙が、「こいつうちに仕官したいって…」と口を出すと、「おおそうか!明日にも殿に話しておこう!あ、先に公瑾に会わせるか?…だったら明日連れていけ。私から話をしておく」と…
「まさか、染物屋で仕官の口を聞いて貰えるとは思わなかった…」
 腕を買われたというのなら嬉しいが、…染物屋では。
 甘寧が憮然としているのは、そういうことである。
 そもそもあの男、二人が出会った事情も聞かなかった。呂蒙が説明しかけたのだが、「ああ、錦帆賊の甘寧なら腕は確かだし、お前が見込んだんなら間違いないさ。いい、いい」と、他に用事でもあるのか、別の船の方にすっ飛んで行って…
 しかし…、高官というから、もっとこう…違った男を想像していた。いったい、孫軍というのは、どういう軍なのか。
「あの人あ…どういう人なんだ?」
 …高位にあるということは、当然、由緒ある家柄なんだろけど…
「あれ?言わなかった?もとは寿春のチンピラなんだよ、あの人」
「はあ?」
 …そういえば。最初に出会った日、子衡どのがどうとか言ってたような気が…
「どっかのお金持ちのお嬢さんをたらしこんで、それで役人になれたんじゃなかったっけ。今も女に手が早いって有名なんだ」
 にこにこと言われて、甘寧は絶句した。
 …こいつ言ってることの意味判ってんのか?
「でね、前の殿とどっかで会って、意気投合してね。孫軍に来て…」
 道理で水賊あがりだと知れても、蔑む様子を見せなかったわけだ。
 …どういう軍だよ、この軍は!!
「あんなちゃらちゃらした格好してるけど、頭いいし、戦も強いんだよ。袁術と前の殿がうまく行かなくなったとき、あの人、捕まって拷問されたりもしたんだけどさ…、それでもこっちのこと何も言わなかったんだ」
「へえ…」
 腹の据わった男ではあるらしい。甘寧は、ちょっと呂範を見直した。
「俺のことも、同姓だからって、弟みたいに可愛がってくれてんだよ。俺が上の人殺して、前の殿の側仕えになったときから、ずっと」
「ふうん」
 さらっと流して、…事の異常さに気づいたのは、そのあとだった。
「お前今何つった?」
「え?俺のこと弟みたいに…」
 呂蒙がきょとんと目を見開く。
「じゃねえよ。上の人殺して側仕えになったとかって、言わなかったか?」
「うん」
 …うん、じゃない。それは…変だろ?
 普通…上官を殺したりしようものなら、死刑になるのが当然。第一こいつが上官を殺すところなんか、想像もつかない。甘寧の目が点になった。
「まだちっちゃいときだよ。声変わりする前だったし」
「声変わり…前だと?」
 …そんな子供が、従軍するか、普通?
「うん。かあちゃんにちゃんとメシ食べさせたかったから、義兄上がちょうど軍預かってて…、ついてったんだ。手柄立てたら褒美貰えるっていうからさ」
 さらりと言われた言葉の重さが、甘寧の胸にのしかかる。
 子供がそこまでしようと思うとは、よほど、貧しい家であったのだろう。喰うや喰わずの暮らしであったに違いない。
 自分でも「ちっちゃいころちゃんと食べてなかったからおっきくなれなかった」と言っていたが…、道理でと、甘寧は思った。
「それで…、殺したってのは…?」
 許されたということは、…そういう、正当防衛とか何とか、理由があったのだろうが…。
「ええと…、俺が手柄立てて、宴会になってさ。その人が俺のこと、からかって、で、俺の刀とりあげたんだ」
 呂蒙が、困惑顔で言った。
「で…、俺が取り返そうと飛びついたら、…その人、抜き身で持ってたもんだからさ…、こう…、首んとこ、切れちゃって…」
「はあ?」
 正直それでは何が何やらわからない。
「はあってったって、俺、さんざん飲まされてたからさあ。頭から血被ったことしか覚えてないんだもん」
 未だに実感が湧かないのだと哀しそうに言う呂蒙を、甘寧は、ぽかんと見つめた。
「俺、自首して出たんだけど…、そしたら、その場にいた連中がさ、みんなで俺の命乞いしてくれて…」
 あんなに飲ませた俺が悪い、奴が刀に手を出したところで止めなかった自分が悪い、…蒙の代わりに俺を罰してくれと、現在の主君の館に皆して押しかけてくれたのだと。陳情書を出してくれた知り合いもいたと。呂蒙はこんどは照れくさそうに言う。
 そして、そんなに皆に愛される子なら、きっといい将になると…、前の殿・孫策が、自分を拾ってくれたのだと…
「ふ…ん・・・・・」
 なんだか…何と言っていいのか。
 字のこともそうだが…、この孫家の軍は、色々な意味で破格の軍なのだろうか。
 だったら。
 …俺らみてえなんでも、具合よく過ごせるかもな…。こいつもいるし…
「俺のことよりさ…」
 とにかく明日は公瑾の大将に会おう、あ、その前に陸家に顔を出そうか。
 にこにこと喋り続けるおおきな瞳に、頷いて、笑顔を見せて。

 …ここでなら、やってけるかもしれねえ。

 甘寧はゆっくりと、盃を空けた。