Act.1〜A.D.203 広徳県
湊に入った船乗りが求めるものは、何といっても、酒と女。
航海の間は、酒にも女にもご無沙汰になるからかもしれない。
板子一枚下は地獄と言われたように、命を張った生業である。陸(おか)に上がれば、命の洗濯をしたくなる…、それも、無理のないことやもしれぬ。
だからだろう。湊のある町には、花街と呼ばれるものが出来ることが多い。
…その町にも、それがあった。
江のほとりの、その町にも…
場末の、いかがわしい店が建ち並ぶあたり。
べにいろの行灯が秋風の中、艶めいた光を揺らめかせている。
一軒の妓楼から出てきた客が、何を踏んだか、突然よろけた。
「うおっ!」
「あらいやだ。酔っ払い?」
送りに出てきたらしい妓が、ナメクジでも見るような目で、それを睨んだ。
「・・・みたいだぜ。踏んぢまったあ。」
踏まれたものは、ひとりの男。
何やら呻いているところを見ると、酔いつぶれているだけのようだが…。
「冗談じゃないよ、店の門口で。商売の邪魔になるじゃないか。なんとかしとくれよ」
「んー」
唸り声を上げた客の男が、肩を竦めて酔漢を引きずり起こした。
「だとよ。ほれ、あんた、大丈夫かい。寝るんなら、人の邪魔にならねえとこで、寝な」
江で働いてでもいるのだろう、日焼けした逞しい腕。
その腕に抱え上げられた痩せて小柄な酔漢は、大人に引きずられる子供のように見えた。
焦点の定まらないおおきな瞳が、ぼんやりと、その客を見上げる。
「…あれ?」
「何よ。お知り合い?」
妓が剣呑な目線を客に流し、男がひょいと首を傾げた。
「いや…?…どっかで、見たような…」
「あー!」
突然。
ナメクジ状態の酔漢が人なつっこい笑みを浮かべ、べちゃりと男に貼り付いた。
「ちょ、ちょっと、おい!」
「たすかったあ。みち、わかんなくなってさあ。つれてかえってよお」
呂律の回っていない、けれどどこかあかるいいろの声が、ほっとしたように要求する。
「おい、何だよ。俺、お前なんか・・・」
「ちょいと、知り合いなら早く連れてっておくれ!そんなところに居られたんじゃあ、客が入ってこないんだよっ!」
背後から出てきた女将らしい女が、二人まとめて足蹴にしかねまじき勢いで毒づく。
「…しゃあねえな」
客の男が苦笑して、分厚い肩を軽く竦めた。
「んじゃ!」
ずるずる。
酔漢を引きずるようにして、客の男が去ってゆく。
忌々しげに舌打ちをして、女将がその背を見送った。
「女将」
ふらりと声をかけたのは、通りすがりの遊客か。
「いい度胸じゃないか。錦帆賊の甘寧を頭ごなしに怒鳴りつけるなんざ」
「ええっ!」
女将がさっと顔色を変えた。
錦帆賊の甘寧。
長江のほとりに住む者で、その名を知らぬものはない。役人でさえ手が出せぬほどの力を持つという噂の、水賊の首領。真っ赤に染めた帆をかかげ、長江を自在に駆け廻り…、彼に狙われた獲物は決して逃れられぬという。
「…う、嘘でしょ?」
「知らなかったのか」
慌てて女将は振り返ったが…酔漢を抱えた男の背はもう見えない。
「ほんとなの?からかってんじゃないの?」
「ほんとだって。一度、酒場で見かけたんだ。三年ほど前かな。連れが教えてくれたよ、あれが、泣く子も黙る錦帆賊の甘寧だって」
「ど、どうしよう!あたしゃ…あたしゃそんなこと、知らなかったから…」
そんな恐ろしい男に睨まれて、商売を続けて行けるのか。女将が震え上がったのも無理はない。
「…しかし、なんでこんなとこに。あいつ、黄祖んとこに仕えたって話だったが…」
こんなところで、何をしているのか。遊客がひょいと首を傾げた。
こんなところ。
今、この町は、黄祖と…正確に言えば黄祖が仕える劉表とだが…敵対している、孫家の支配下にある。
孫家の今の当主は、孫権という男だ。
彼の父・孫堅が、劉表との戦いで、黄祖配下の兵に討ち取られたという経緯で、孫家は黄祖を仇とみなしている。
両者は、若くして死んだ先代・孫策…孫権の兄だ…の頃から、小競り合いを繰り返して来た。
彼にとってはいわば、敵地の筈。
「ちょっと…、それって、あれじゃないの?こっちの様子探りに来てたんじゃないの?」
女将の顔がさらに引きつった。
今このあたりを支配している孫権にとっては、黄祖の首級を挙げることが悲願であると言ってもよい。
彼は、戦については兄に及ばぬというのが、衆目の一致して見るところ。ここで、その、兄でさえ挙げることのできなかった黄祖の首級を挙げれば、自分に対する評価を一新することができる。事実、その必要もあるのだ。孫権の代になって、孫家の先行きを不安に思い、背く輩が後を絶たないのだから…
この夏も孫権は黄祖を攻めた。そして、今一歩のところで取り逃がした。恐らく、孫権はまた兵を出す。…向こうもそれは判っている。
だから、配下の甘寧をこちらに寄越して、密かに様子を探らせているのでは・・・・・
「…にしちゃあ、えらく堂々としてたがなあ…」
「冗談じゃないよ!そんな…敵の武将を店にあげたなんてことがバレたら、どんなお咎めを受けるか…」
妓楼の女将ふぜいでさえ、そういう気の廻し方をする…、それが、今の時世。
この国…漢…は、今、乱世のさなかにある。
天命は、もはや、漢を離れた。多くの者は、その感覚を抱いていた。
この長江の南、揚州の地でも、宗教勢力や豪族といった小集団の勢力争いが後を絶たない。中央の目の届きにくい辺境ゆえに、その乱れ方はひときわ凄まじかったと言ってもよい。
揚州の南東部が、孫家の勢力下に纏まって、まがりなりにも安定しかけたのが、孫権の兄・孫策の代。僅か、四年ほど前のことだ。
しかし、小覇王とも讃えられたその孫策は、若い身空で凶刃に倒れた。弟の孫権が後を継いで三年。…孫家がこのまま江東を保ち続けることになるのか。それは、誰にも判らぬ。無論、孫権にさえも。
誰もが明日に怯えていた。生きる為に、必死で戦っていた。
それは、そういう時代であった。
そういう時代であったから。
広徳県の役人たちは、自分たちの県長が、連絡もなしに姿を消した時、皆、血相を変えたのである。
そう。
よりにもよって、「錦帆賊の甘寧を見た」という情報が、妓楼の女将から寄せられた、その朝に。
「最後にお姿見たのは、誰だっ!」
一番年嵩の役人が喚いている。
「当番の門衛です!もう、夜もだいぶ更けてから、ふらっと出ていかれたと…」
おろおろと、下っ端らしい若者が言う。
「じき戻るっておっしゃってたらしいんですが…、自分の交代時間までには戻られなかったって」
夜勤の門衛を叩き起こして、話を聞いてきたところなのだ。
「…そんな遅くに、どこへ行ったんだ」
そんな遅くに男が行きそうなところといえば、…よからぬところしか思いつかないが。
「門衛は女だと思ったらしいですけど…、でも、あの人、ほら…」
その県長という人は、あまり、そういうところに出入りしそうな雰囲気ではない。
…いや、堅苦しい人ということではない。むしろ、正反対だ。まだ若い彼は、誰にでも愛想がいいし、つきあいもいい。真面目は真面目だが、当人曰く、こういう仕事は初めてだから何を見ても珍しいのだそうで、その言葉通り、大張り切りで頑張っていたと言う方がいいだろう。一生懸命さがこちらにも伝わってくる、そういう真面目さで、誰もが好感を持って彼を見ていた。
その彼が、妓楼に女を買いに行くかというと…、なんというのだろう。そう。似合わないのだ。…あの人には似合わないとしか、言いようがない。
まあ。若い男のことだから、判らないといえば判らないのだが…
「部曲の連中も知らないのか」
こういうご時世である。無論、県長は、直属の部曲…軍…を引き連れていた。100人ほどの隊だが、彼らも知らないという。それどころか、昼の調練が終わってから、一度も姿を見ていないらしい。
「なんかねえ、それまでずっと室に籠もって仕事してらしたみたいなんですよね」
別の役人が、難しい顔で言った。
「ほら、昨日、確認頼んだ竹簡。柴桑に送る米の量書き出した…、あれが拡げっぱなしになってましたし、部曲の連中の話では、晩飯の時も顔見せなかったらしいですから。急ぎの仕事にかかり切りになってるんだろうって、連中は思って、心配もしてなかったらしいですが…」
遅くまで仕事をしていれば、腹も減るだろう。船乗り相手に酒や飯を出す店は、遅くまで開いている。そういう店にでも出かけたのではなかろうか。そこで、何かが起こって…
一同は、ぞっとして、顔を見合わせた。
「お、俺のせいじゃないぞ!」
皆の視線に、非難の色を読んだのか。年嵩の役人は、慌てて手を振った。
「そら…、急かしたのは急かしたが…、何もそんな、晩飯抜きでやらなきゃならないほどの量じゃなかった!たしかにちと、なんだかんだと溜まってはいたけど…」
「…私らにはそうでも、あの人、読み書き得意じゃないし…」
戦場にばかりいたからこういうのは苦手なんだよと、自分で言っていた。照れくさそうに、笑いながら。
「けど…、期限切ったわけでもないし!そこまでしなくてもよかったのに…」
「あの人、私らに迷惑かけるの、嫌がるからな」
それまで黙っていた中年の役人が、ぼそっと言い。場は、しいんと鎮まった。
「…なんでそうなったかはいい。とにかく、何かあったに違いないんだ。喧嘩だ何だって話は来てないし…、となると、気になるのはその、甘寧だ」
誰もが、肯く。
情報を寄越した妓楼の女将は、こちらの様子を探りに来たのではと言っていたが、それなら、何もそんな、広く顔の知れた男を寄越さなくとも、顔を知られていない人間で気の利いたものはいくらもいるだろう。そうではあるまい。
だが、もう一つ、考えられることがある。
錦帆賊の甘寧といえば、狙った獲物は決して逃さぬと言われた、腕の立つ男。そういう男をわざわざ差し向けるということは…
「あの人、武官としちゃ、一級品だって言うから…」
「あれでしょう?剣であの周公瑾どのに勝てるんでしょう?部曲の連中が自慢して…」
「ご先代がずっと側に置いて、可愛がってたそうじゃないですか。ご先代といえば、何てったって、小覇王ですからねえ…」
「ここの県長になったのも、夏の黄祖戦の戦功があったからだし…、黄祖にすれば目障りだったかも…」
そう。つまり…。
・・・・・。
あの小覇王が刺客の凶刃に倒れたのは、僅か三年前のこと。誰の記憶にも新しい。
「こうしてはおられぬ!」
年嵩の役人が、また、喚いた。
「捜索隊だ!捜索隊を出して…」
外が、急に、ざわついた。
ぱたぱた。
聞こえた。軽い足音。
少しよれっとした服装(なり)の青年が、ひょいと室を覗いて…
「ごめん!遅くなって…」
はっと息を吸い込んだ役人たちの口が、次の瞬間、異口同音に喚き立てた。
「県長どの!」
「どこに行ってたんですかーっ!!」
頭ごなしに怒鳴られて。
困ったように肩を竦めた、おおきな瞳の、小柄な青年。
それが、彼らの「県長どの」。
「あ…、悪い。…ちょっと、その…仕官したいって奴がいて…、会っててさ…」
何やら、しどろもどろに、青年が言う。
何故先にひとこと言っておかないと、怒鳴ろうとした役人が、連れの男に気づいて、はたと、口を噤んだ。
にいと、底意地の悪そうな笑みを浮かべ、不作法に腕組みをしたその男。盛り上がった肩、分厚い胸板…、これは、武芸で鍛えた躰だ。それに、あの、鷹のような目。
こいつ…、ただものではない。
それに。あの、はだけた襟元から覗いているのは、刺青ではないのか?
確か、錦帆賊の甘寧には、異民族がするような刺青があるという噂である。
まさか…?
役人たちの顔が引きつった。
「えと、これが、その・・・・・」
紹介しようとしたのだろうが…、そこで、青年は固まった。
「…あんた、誰だっけ」
男はぶっと吹き出し、役人たちはぽかんと口を開けた。
…何やってんですか県長どの!あんた…、それは、その男は…
「甘寧。甘興覇だ」
笑いながら、男が名乗る。
…やっぱり!
しかし青年の方は、役人たちの妙な雰囲気にも、全く気づかないようで。
「そう、興覇って言うんだ!ちょ…俺、ちょっとこいつと、話があるから…」
あたふたと、そう、言い残して、まだ笑っている男を引きずるように、おおきな瞳は、逃げ出した。
残されたのは、呆気にとられ、言葉を失って立ちつくす役人たち。
無理もない。
敵の刺客ではないかと疑っていた当の男を引っ張ってきて、仕官したがっていると、説明しておいて。
それで、相手の名を知らぬとは…、いったい何がどうしたら、そういう展開になるというのだろう。
「だ、…だいじょうぶなんでしょうか…。仕官したいとか言っておいて、殺そうとかいうんじゃ…」
閉ざされた扉を見やって、下っ端の若者は、不安そうに言い。
「…まあ、…腕の立つ人だから…」
中年の役人も、心配そうに言った。
だが・・・・・
「ごめん!ほんっと、ごめん!俺…名前も聞いてなかったなんて!」
室に入った途端におろおろと謝り倒され、甘寧と名乗った男は苦笑した。
「いいけどよ」
昨夜は人間ナメクジ状態で、ずるずる引きずっているうちに、ぐうすか寝ちまいやがったし。
朝…いやもう昼か…、目が覚めたら目が覚めたで、昨夜のことは何も覚えていないというし。
そんな間抜けな男相手に、怒ってみても仕方がない。
それにしても。
「お前ほんっとに県長だったのな」
「そう言ったろ?」
ぶーと膨れた子供っぽい顔を見ていると、どこからか笑いが込み上げてくる。
…ほんと、大丈夫かよ、孫家。こんな奴県長にするなんて…
正直、信じていなかったのだ。
女将に押しつけられた時は、一瞬、江に投げ込んでやろうかと思ったが…、そう。江で思い出したのだ。この前このおおきな瞳を見たのは、江の上だったということに。
単に江の上だというだけではない。自分たちは戦をやっていた。それも、敵味方で。
この夏だ。自分は黄軍、彼は孫軍。撤退にかかった黄祖の蒙衝(軍船)を必死に護っていたら、えらく動きの速い敵船が突っ込んで来た。
そいつの指揮を執ってたのが、こいつだったのだ。
初めて見た。この甘興覇の矢をかわせる奴。
弦音と同時に、片腕の幅くらい、ぱっと横っ飛びに飛びやがった。次の瞬間、俺の矢が、一瞬前までこいつの背があったところを通り抜けた。
やるじゃねえかと思って覗き込んだ自分の顔を、見上げてきた、おおきな瞳。
こいつも「やられるかと思った」からこのツラ覚えてたらしいが…、そういう相手に「つれてかえってよお」なんて、いくら酔ってるからって、言うか、普通?
あんまり馬鹿でおもしれえから、船連れて帰って、目エ覚ましてからもさんざんからかって。
ひょっと思いついて、「黄祖を見限ってきたんだが、行くとこがねえ。手間かけた詫びに雇ってもらおうか」と冗談半分に言ったら、二つ返事で「いいよ」と来たもんだ。
自分はここの県長だから、しばらく下で長吏やってろと。
絶対嘘だと思ったんだが…
「けどほんといいのか?俺なんか雇って…」
「なんでさ」
きょとんと。おおきな瞳が、甘寧を見つめる。
「俺アただの男じゃねえ。錦帆賊の甘興覇だぜ?んな、水賊あがりなんざ…」
「ああ、平気平気。子衡どのだって寿春のチンピラ上がりだし、公奕だってどっかそのへんでぶいぶい言わせてたワルだし…」
…何だよ、それ。
「だいたい俺ら初対面で、お前、俺のことなんにも知らねえじゃねえか。人殺しが趣味かもしれねえし…」
「興覇そんな奴じゃないよ。見りゃ判るもん」
教わったばかりの字をさらりと呼んで、おおきな瞳がにこにこ笑う。
…ぐでんぐでんに酔ってたくせに、何言ってやがんだ。
けれど、その瞳はあまりにも、澄んで、きれいで。…自分の心の奥底まで、しっかり見通しているようで。
なにやら妙に照れくさくなって、甘寧はまた苦笑した。
確かに、…孫権の代になってから、江の周辺は荒れている。商船の往来も少なくなった。賊に戻ったところで、手下を喰わせてゆけるかどうか判らない。
ここで、手下もろとも孫軍に雇って貰えれば、言うことはないのだが…
先の戦で大奮戦した自分たちの軍に黄祖が寄越した褒美を思い出し、甘寧がふと顔を顰めた。
酒と、肴。それだけだった。
領地とは言わない。けれどせめて報奨金でも寄越してくれなくては、手下たちに酬いてやることが出来ない。
己の衣食が足りればよいというわけではないのだ。それだけでは、妻子を養えない。家を構えることが出来ない。人がましい暮らしが出来ない。
自分は…手下たちに、人がましい暮らしをさせてやりたくて…
「だいじょぶだよ。みんなちゃんと喰えるようになるからさ。殿、気前いいもん」
あかるい声にさらっと言われて、甘寧はぎょっと目を瞠った。
…心を、読まれた?
「それ心配してんだろ?わかるよ。俺も、喰えなくて軍に入ったクチだからさ」
ちっちゃいころちゃんと食べてなかったから、いまだにおっきくなれないのだと。あっけらかんと相手が笑う。
…あ、なんだ。それでか。
「いいじゃん。一緒にやろ?俺、あんた、気に入ったし」
「お。いいこと言うじゃん。そういうノリ、好きだぜ」
ぱあっと甘寧が笑顔になる。
…こんな奴抱えてるような軍なら、でもってこいつみてえなヘンな奴と一緒にやれたら、人生、楽しいかもしれねえしな。
まあ、それは、言わなかったが。
「よっしゃ!世話になっか」
「うん!」
「よろしくな、・・・・・・」
そこで、甘寧は、はたと詰まった。
「なあ、ひとつ聞いていいか?」
「なに?」
「県長どのの、お名前は?」
「・・・・・へ?」
愕然としたおおきな瞳が、一気に情けない色になる。
「俺ってば名乗ってなかったのか?」
甘寧は必死に笑いを堪えた。
「なかった」
「助けてもらったのに?」
「そう」
意地悪そうに言ってやると、相手の顔が真っ赤になった。
「・・・呂蒙。呂、子明。」
恥ずかしそうに、呂蒙が名乗る。消え入りそうな声を出して。
・・・絶対、馬鹿だぜ、こいつ!
それ以上どうにも我慢できなくて、甘寧はとうとう吹き出した。
「おまえ、なあっ!そこまで笑うこと、ないだろっ!」
まっかっかもいいところな顔をして呂蒙は喚き立てたけれど、その顔もどことなく愛嬌があって、甘寧の笑いは止まらない。
「おい!興覇あ・・・・・・」
しかし。互いの名前も知らずに仕官の話をしていたというのは、確かに滑稽きわまりない状況で・・・・・
扉の中から響いて来たのは、剣の触れ合う音どころか、からりと陽気な高笑い。
「おまえ、なあっ!そこまで笑うこと、ないだろっ!…おい!興覇あ・・・・・」
あの男が笑っているらしい。役人たちの目が、まるくなる。
そうして。少し遅れて。
澄んだ秋の空のようなあかるい笑い声が、楽しそうにそれに和して響いてきた。
呂蒙の声だ。
どうやら二人はすっかり、意気投合しているようで・・・・・
「…あいつ、こっちに来るんですかなあ」
「みたい、ですねえ…」
何がどうしてそうなったのか、さっぱりすっかり判らないけれど。
「まあ、…子明殿じゃからな」
年嵩の役人の言葉に、一同は思わず頷いていた。
子明殿だから。ああいう人だから。
何が起こったって…、不思議じゃない。
誰もにそう思わせるだけの何かを、呂蒙という男は持っていた。
「さ、…あれだけ笑ったら、喉も渇くだろ。湯茶の用意でもしておくか」
「けど、ねえ。…いったいなんでこうなったんでしょうね?」
「ま、あとで聞いてみるさ」
それにしても。
「なんかほんとに…県長殿らしいよな」
くすくす。
役人たちが、笑いながら、それぞれの仕事に戻ってゆく。
部屋の中からは、まだ、笑い声が響いていた。